色即是空。2/2

(下記、1/2より続きです。↓)

で、ここで
前回貼ったAquaTimezの曲の話に戻ります。

AquaTimez自体も
私よりちょっと下の世代だと思うんだけど、

初めて聴いたときの曲の印象も
私達までの世代とは違うなぁ
って感じで
新しさを感じました。

実を言うと
RADとかもワタクシ的には
世代的に違うなーと思っていて、

若い頃とか特に
その違う部分がわかるというか、
より感じてました。

なんか、同じ日本でも
育ってきた環境自体が違うというか。

AquaTimezも
音楽への言葉ののせかたとか新鮮だったし。

とりあえずそんな感じ。

で、前回貼った曲は
宮部みゆきさん原作の
映画「ブレイブ・ストーリー」(アニメ)の
タイアップ曲だったんですけど。

でも、私は
見てません。

宮部さんの本は
結構たくさん持ってます。

当時、出てた本は
たぶんほとんど読みましたけど、

「ブレイブ・ストーリー」は
読んでないんですよね。

まぁ、昔読んだ本も
今は改変(改悪とも言う)されてるのが多いので、
話の紹介とかはせず、
私が記憶していて
なおかつ今も変わってない箇所を中心に
書いてみるわけですけど、

「ブレイブ・ストーリー」は
当時の映画の番宣では
その名の通り
勇者の冒険って感じのストーリーなのかな
という印象でした。

宮部さんのゲーム好きは
読者ならみんな知ってますが、

当時、SNSとかない時代、
大沢在昌さんと京極夏彦さんと宮部みゆきさんで
共同でやっている
大極宮」というサイトがあって
宮部さんは意外と電波な小説家でした。

大沢さんも、
京極さんも、
宮部さんも
同じミステリー作家ですけど
作風とかは違うけど
共通しているのは
メディアに近いっていうところだな
と昔から感じてました。

大沢在昌さんは
新宿鮫」とかの
警察モノで、
こちらも映画化されていたような気がします。

あと、漫画家にも多いんですが
ミステリ作家も
ゲーム好きって意外と多いんですよね。

宮部さんの作品にも
まんま「R.P.G」っていうタイトルのものもありますが、

宮部さんがゲームを始めたのは年齢的には
結構遅かったって聞いたような気がします。

それこそ、
「ブレイブ・ストーリー」とか「R.P.G」とか書いてるくらいの時期だったような。

でも、宮部さんの作品を読んだらわかるんですけど、

宮部さんの作品は
もともとRPGっぽい雰囲気のものが結構あると思うんです。

設定が。

もしかしたら、昔
火車」の話を少し書いたときに書いたかもしれませんが、

宮部さんの作品は主人公が男の子っていう設定が多いんですよ。

青年まで行かない
少年くらいの年齢の。

で、両親がいなくて
おじいちゃんっ子だったりする。

母親は死別しているかなんかでまずいないし、
父親がいても
すごく高齢だったりする。

だから、基本的に
主人公は一人で世界に立ち向かわなきゃいけないんです。

おじいちゃんは
たまにアドバイスはしてくれるし、
帰ることのできる場所を作って
待っていてくれる
そんな存在。

だけど、少年は
一人で外の世界に出かけていくんです。

だから、世界は
少年の目線を通して全て描かれていく。

そういうのって、
まさにRPGの世界観と同じだから、

もしかしたら
宮部さんの作品に同じようなことを感じて
ゲームを勧めた誰かがいて
宮部さんがゲームにハマったのは
当然といえば当然のことではないかと、
そのとき私は思ったんです。

だから、「ブレイブ・ストーリー」も
たぶん、そんな話なんだろうな
と思ったのと、

でも、そのときは、
なんとなく
見なくていいかな
って思ったんでしょうね。

その前に、
宮部さんのベストセラー「模倣犯」が映画化されて
それがえらい酷かったので
(本当に酷かった。(笑))
ミステリ小説の映画化は
あてにならんという印象がそのときもあったのかもですね。

あと、
最近思うのが、

当時、オンラインゲームがやたら流行っていて
でも、ネトゲって
昔からのゲーム好きからすると
ある種の違和感があるんですよ。(前も書きましたけど。)

その違和感の謎も
ここ数年のスマホゲームの流行で漸く解けましたけど、

やっぱりその違いは「お金」ですね。

昔からあるゲームも、
ソフトという商品を売ってお金を儲けることにはかわりないんですけど、
お客さんはその商品の価値に代替するものとして
お金を払うと思うんです。

でも、オンラインゲーム(ネトゲ)は
企業はもちろん
その裏にいるゲーム業界とは何の関係もない人達が
「お金」を儲けるために
ゲームを「させている」感じなんですよね。

実際、電子通貨ができて
RMT(リアルマネートレーディング)によって
実際のお金がゲームの世界を超えて
現実世界で動くんです。

以前、島田荘司さんの「リベルタスの寓話」で
島田さんがそのことに興味を持って作品を書き始めた
と書いていたことを紹介しましたが、
「リベルタスの寓話」の中で書かれている通り、

そういうお金儲けとくれば
いち早く鼻を利かせて集まってくるのは
893のみなさんなわけです(笑)

なので、やり方が
かなりガラが悪い。

当時、就職超氷河期とか言われて(そう言われ始めたのはかなり後年になってですが)

就職できない二十代の大学生とかが
ニートとか言われて
(大学出てるのにNonEducatedもないだろうにと
そのときも思いましたが)

ろくな仕事にも就けずに
日中パソコンに向かって
ずっとネットやってる若い人達に
幻想の世界から手招きするんです。

オンラインゲームって
いろんなキャラになれるわけじゃないですか。

装備とかも整えて。

昔、ゲームにハマった人達は特に少年時代を思い出して
深みにハマったんじゃないかな
と思うんです。

しかも、その世界は
終わりがないんです。

昔のゲームは
親の言い付けを破って
徹夜で何時間もやっても
ひとつのソフトで
50時間もかからないんです。

だから二晩夢中になっても
三日目には醒める夢なんです。

でも、ネトゲに終わりはない。


その'夢'の質も全然違いますね。

ネトゲの世界の夢は
限度を越えると
もうマスターベーションですよ。

何が楽しくておもしろいのか
自分には
もはやわからなくなっていく
っていう。

それが延々と続くの。

私もたまにゲーム厨になるときがあるから
(って言っても、一応限度をわきまえているから
自分自身を戒めてネトゲ
決してお金を使ってやらない。)

よくわかります。

そういう人達を手玉にとって
実際のお金が動くんです。

当時、凄かったですよ。
ほんと、いろんなところにオンラインゲームのバナーが貼られてて。

これは金融です。

しかも、やっている人達が
あまり質のいい人達ではない。

日本だと893が絡んでることもあるし、
「リベルタスの寓話」でも
書かれていましたが
そういうオンラインゲームという金融の穴を狙って

中東の紛争地域のテロリストっぽい人達も
加わってきます。

「リベルタスの寓話」の中で

893さん達はお金儲けにどうしてそんなに鼻が利くのか?
お金儲けについてだけには
893さん達は勉強家だ

と書かれてありましたが、

たぶんそれは
893さん達に情報を流している
お金儲けの専門の人達がいるからだろうな
と今は思います。

いわゆる893さん達は
実行犯であって
首謀者達は
別のところにいる。

で、893さん達から
キックバックしてもらった
お金を受け取るか
何らかのメリットを享受しているんだろうな
と。

しかも、893さん達は
行政の法令整備のタイミングとかもばっちりなので、

たぶん首謀者は行政に絡んでる人間達(しかも現役最前線レベルの)
だと思うんです。

要するに、
90年代のネトゲ商法も
行政が景気が悪いとか焚き付けて、
企業を誘導して
当時の大学生を社会のレールから脱線させて
パージした挙げ句、

ネットに追い込んで
手玉に取ってたわけです。

それまで学歴社会とか言って
勉強しかさせてこなかった子達にですよ?(笑)

そういう意味では
今のコロナ禍の大学生達も似たようなものだと
思いますが。

やり方は全く変わってないというかね(笑)

今回のコロナ禍の大学生達がかわいそうなのは、
これからもそういう人達の管理下に置かれて
情報格差をつけられたり
不利益な処遇を「永遠に」受ける可能性がある
ということですね。


私達のときは
社会をパージされた後に、
自分で道を切り開ける可能性がまだあったのが
救いです。

だからこそ、ベンチャー企業として起業する人達もいたし。
(結局は淘汰されたみたいですが。)

ネット世界にはまだ自由がありましたから。

だからこそ、
自分とわかりあえる価値観の人を見つけることもできたし、
誰も教えてくれない
社会や世界の真実を
そこで知ることもできたわけです。

でも、今は
結局ネットも統制下に置かれて
価値観も無難な
誰かさん達に都合のいい発言しか
許されない環境になっているし、
これからは、もっとそうなるでしょう。

私から見ると、
さぞ不自由だろうな
と思うんですけど、

今の人達って
自分達が「教えられた」価値観以外
知らないし、
知る機会もないし、
自分達が知るべき価値観以外は「false」なんですよ。

ロボットみたいに。

この間、
久しぶりに「ブレードランナー」(新しいほう)を見ましたが、
レプリカントの人達が
定期的にチェックするテストを思い出しました。

あれって、
自分が「持つべき価値観」なんですよね。

それは、人間とレプリカントの違いが
レプリカントはあくまでも
人間に奉仕するロボットであるということで、

レプリカント
自由に考えることを
許されていないんです。

漫画版の「ナウシカ」の
旧人類が仕組んだ
人間を改造して新人類を作るのと同じなんです。

「地球にやさしい」人類
ってやつですね。

まぁ、実際
現代の現実世界にヒドラレベルの人達がたくさんいることは
以前書きましたけど(笑)

ほんと似てるよなー
と思います。

実際の現代の人間達は、
人間様っていうか
自分のことしか考えてないくせに
やたら「エコ」とか言いたがる人達だしな。

だから、たぶん
ナウシカ」が反抗しなくても
どの道「地球にやさしい新人類」なんて
作れなかったんじゃないかな
とも思うけど(笑)

でも、まぁ
そういうことに危機感を抱いてなんとかしたい
という旧人類の想いみたいなのは
偏執的ですけど、
宮崎駿監督の世代の人達なら持ち得るけど、

それ以降の世代の人達には
あまり持ち得ない考え方なんじゃないかな
と。

みんな、自分を犠牲にしてまで
人間の世界を壊してまで
世界を変えようという意識とかないし、

それが美徳という世界でも
なくなっている。

でも、わずかながら
そういう考え方を理解し、
共感できる人達はいるわけで、
そういう人達が
それだけで
「社会に反抗する危険分子」と見なされているわけですよね。
わかります。

でも、まぁ
実際にそれを現実世界でやる人は
いないわけで。

それをわかっているからこそ、
漫画や小説の中で
その意識とか理想の部分だけを表現するわけじゃないですか。

でも、その世界観が
論理的に正しいからこそ
現実世界でも起きる可能性があるということです。

今は、どこにも
その表現の場所がないよね。

AquaTimezの曲の話に戻りますが、

「決意の朝」の始まりは
こんな感じです。


つらいとき

つらいと言えたら
いいのにな♪


ね?

歌の中でさえ
「つらい」と言えないんですよ?(笑)

まぁ、今では
「つらいというときにつらいと言えない」
ということさえ
言えなくなりつつありますが(笑)

みんないつも笑って
不満なんかないみたいに
ニコニコしてなきゃ
いけないんです。

↑例のポジティブシンキング推奨の人達による。

私、最後に行ったエレカシのライブ@京都で

宮本さんが
NHKの紅白に出るとか言うから、

ライブの間
人目につくレベルで
思いっきり泣いてやりましたけど(笑)

でも、まぁ
そのあと
コルレス」歌ってくれて

全員死刑です

って言ってくれたから
若干機嫌を直しましたが(笑)

そのとき
宮本さんが

「そうやって
笑ってたらいいんだ」

って
言ってたけど、

私は、本当に嫌なとき
笑ってニコニコできるような
そんな人間じゃないんで。

泣きたいときは
これからも泣きますし、

笑いたいときに
笑います(笑)


AquaTimezの世代って
高校生が
当たり前に自分用の携帯を
持ち始めた頃の世代なんじゃないかな
と思います。

私達の世代は
学生時代に
ギリそれはなかった。

私達が高校生の頃
ポケベルは存在したけど
周りに持ってる人はいなかったし、

大学生からは
PHSからすぐに携帯になったし。

中学、高校生活が
今みたいなネット中心に動いたり、
表向き普通に学生生活を送っていても
裏でネットの誹謗中傷にあうようなことは
なかったので

それだけは
幸せだったと思います。

携帯電話は
物理的に遠い人と人との距離を縮めたかもしれないけれども、

近しい、
或いは
本当に信頼しあう人達との
関係

或いは
自分自身まで
粉々に粉砕してしまうこともあるわけです。

たぶん、「ブレイブ・ストーリー」の映画化を聞いたとき

そういう架空世界を
美化しすぎるような
一種の不安を感じたのは
確かです。

まぁ、そんな感じで
当時、「ブレイブ・ストーリー」に
違和感を感じたのは

宮部さんの描く昔ながらのRPGの世界観よりも
オンラインゲームの仮想世界に近い雰囲気を
感じとったからなんですよね。

しかも、アニメ。

なんとなく、自分が好きなやつとは違う
というような。

罠くさいというか(笑)

実際、宮部さんは
自分の「R.P.G」という作品の中では

昔ながらのRPG の世界観を描いたわけではなく、

RPG の仮想世界にハマりこんで
現実世界に帰ることができなくなった家族を
描いたんです。

しかも、そういうときの
宮部さんの目は
とても冷たいんです。

決して、同情的ではない。

宮部さんの作品を読んでいて感じるのは

宮部さんが
東京の下町出身だということで
しかも、おじいちゃんっ子で
昔ながらの東京というのを
知っていて

どちらかといえば
今ある高度経済成長期やバブル後の東京には
否定的ということがひとつ。

模倣犯」で
おじいちゃんが出版社を訪れたとき

完全に夜型人間で朝は机で寝ているのが当たり前の
雑誌編集者に憮然とするのもそうだし、

「東京下町殺人暮色」で
戦後10年以上たった東京の下町に
防空壕あとが掘り起こされたときに、

下町に住んでいて
このあたりにそんなものがあることすら知らない人が
増えたというのは、

それだけそこに住む人達が変わったということを書いていたし、

火車」で
クレジットカードにハマって抜けられなくなる人達と
マイホーム願望で無理なローンを組んで返済が不可能になり破産する人達は
同じという言及の背景には

東京のマイホームブームがあったわけであって。

空虚な幻想に
流されて惑わされて
結局身を滅ぼす人達を

冷たい目線で眺めている。

宮部作品に
「救済」はない。

何故なら、ミステリーとは
世界の事実の上に構築された
架空の世界だからだ。


宮部さんって
女の人が嫌いなんだろうなぁ
(笑)と
宮部さんの作品を
読んでいて思う。

特に、若い女性に対する目線が冷たい。

模倣犯」の犯人達は
女性達を監禁して
動物のように扱った挙げ句、
最後には殺してしまうんですけど、

その描写に一切の優しさがないんです。

怖いほどに。

まぁ、実際
被害者がヒーローに助けられて
一件落着みたいなことは
現実世界では起こり得ないんで
ミステリーでは当たり前なんですけど。

いろんな作家さんの
目の描写って
特徴があるんですが、

宮部さんの女性の目の表現で
たぶん本人が気づかないうちに
他の作品でも使っている表現が
模倣犯」にはある。

それは、
女性が首を締められて死ぬときに
目を剥くときの表現なんですけど、

宮部さんは
こう書いています。

ゆでたまご
白い剥き身のような

と。

リアルすぎませんか?(笑)

私は、本を読むとき
映像が頭の中で再生されるんですけど、
(前にも描きましたが。)

これを読んだとき
ぞっとしました。

しかも、たぶん本人が
気に入って使ってる表現なんですよね。

例えば、
遠藤周作さんが
美しい女性の目の描写を書くときに
好んで使う表現があって。

それは
こういう表現です。

彼女の夕陽のようにうるんだ瞳は。。。

今でこそ
「うるうる目」という表現を普通に使いますが、
ワタクシ的に初出は
遠藤周作さんです(笑)

それと比べてみても
なんというか
容赦のない描写
というより
なんだか生々しすぎる気がしました。

模倣犯」は
タイトルのとおり、

若干、模倣犯が登場しますけど、

模倣犯」で描かれる女性への虐待描写は
当時の世相と一致してました。

それが、先駆けなのか、
世相の再現なのかは
鶏と卵の関係で、
どちらとも言い難いけれども、

世相と一致していた
ということは
はっきり言えます。


携帯電話が普及したことで、
女性への性犯罪で
劇的に増えた現象があります。
それは、被害者への犯罪行為の撮影です。

携帯で撮影、編集、保存が
簡単に行われることができるようになったからです。

おまけに
90年代はLSDなどのドラッグが若者でも簡単に手に入るようになり、
ネットでのドラッグの流通はそれを助長しました。

なので、当時の犯罪小説には
女性をレイプするだけでなく、
ドラッグを使用して意識を朦朧とさせ、
被害者にあらゆる性的虐待を行い
それを撮影して保存するという行為が
かなり描かれていました。

東野圭吾の「さまよえる刃」もそうだし、

岩井俊二監督の映画「リリイ・シュシュのすべて」でも

同級生の男の子達が
女の子を輪姦し、

その様子を撮影した上で、
それをネタに脅迫し、
援交を行わせるという描写がありました。

それも結構生々しくて
たぶん嫌いな人は
嫌いだろうな
と思うし、

そういう事件や問題を
「若者の刹那的な感情が引き起こす悲劇の美化」みたいに
まとめているような感じが
私も個人的には嫌いですね。

背景にあるのは
汚い大人達による
若者を性的玩具のように利用する行為なわけだから、

そういうのを
煙に巻いている感じを受けます。


女子高生の援交という概念が一般化したのも90年代です。

模倣犯」はベストセラー
になり、
そういう犯罪行為が行われるという概念が、
一般にも普及する結果ともなり得ましたが、

たぶん人々は
最初のうちは
その表現とそれに裏付けられる事実を
驚きを持って受け入れるのですが、

次第にいろいろな同じ表現に触れることで
当たり前になっていって
最初ほどの驚きもなくなって慣れていったのではないかと
思いますが。

私が、他の人達と違うところは
同じ表現でも
何度見ても
同じような感慨を受けるんです。

小説の場合でも
読むたびに何度も頭の中で
同じ映像が再生されるんですが、

模倣犯」の
女性の白目がゆでたまごの剥き身
っていう表現を見るたびに
いつもぞっとします。

作品を超えて
語りかけてくる何かを
感じるんです。

だから、
宮部さんの表現は
真に迫っているとも言えるけれども
それとは別に
この冷たさはなんだろう
と思います。

火車」でも
それは同じで、
とある女性は
父親のカード債務過多により
一家離散して
さまざまなつらい目に遇います。

893につかまり
酷い目に遭わされるわけですが、
この作品では
逆にどういう酷い目に遭わされたかという描写は
一切なく、

当時の唯一の友人という女性に
断片的に語らせるんですが、
それがまた冷たいというか、
底意地が悪いんですね。


酷い目に合わされた女性は
本人には何の落ち度もないのに
逃亡者にされて、
ずっと逃げ続けて、
生きようと必死なんですけど、

その女性を語る女性達は
一様に幸せに、のんきに暮らしていて
むしろ「会いたがって」いたり
「心配して」いたりするんですけど
当たり前に赤の他人なんです。

そういう人達に
どん底の人を語らせること自体
なんだか意地が悪いなぁ
と思いますが(笑)

そして、
不幸な境遇の女性が
一切「救われない」のは、
彼女を犯罪者に仕立てあげてしまうということです。

例えば、
実際に同じような境遇の女性がいて
犯罪に走る人もいれば、
犯罪に走らない人もいる。

でも、不幸な境遇で
犯罪に走った人間がいて、

たぶん、昔の社会派小説とかだと
犯人に自白させるときに
その身の上に
情状酌量の余地があり
反省している、後悔している
本当はこんなことに手を染めることはしたくなかった
という側面や
社会的な背景がいかにその人を過酷な運命に導いたかということを語らせる
やさしさがありました。

でも、「火車」では
本人に自白さえさせないんです(笑)

最後のシーン。

私が最初に読んだときは
主人公の刑事が
被害者が埋められたかもしれない場所で
犯人の女性と
会う
というような場面が最後だったような気がしますが、

今読むと違っていて。

とある喫茶店

犯人の女性は美しく
装いも軽やかに
登場しますが、

それを見て
読者は
「犯罪者のくせに」

より反感を持つ人もいるでしょうし、

最後に肩に手を置くシーンで終わるところなど、

逃亡者を捕まえた側の
「勝利」を象徴しており、

たぶん読者も
その「勝利」の余韻に浸ることはあっても

犯罪がどのように起きたのか、
結局、誰が悪人で
何がいけなかったのかを
考える余地すらないんです。

悪どい貸付を行って
違法な取り立て行為を行う893についての批判は
スルーで、

そういう違法な取り立てによって
人生を追い詰められ、
恐らく家畜以下の非人間的な扱いを受けた女性は、

明らかに
死ぬか
犯罪を犯してまで生きるか
の選択肢しかなく、

もしそこまで追い詰められなければ
そんなことまでして生きようとは思わなかっただろうに

その辺りも
曖昧にぼかしてあります。

挙げ句、
クレジットカードにはまる人間の特徴と
マイホーム願望から無理なローンを組む人達を

夢に溺れて自業自得の結果になった人と
言い切り、

団地に住む住人は
極めてまっとうみたいな
不自然な書き方をしているので

宮部さん
個人的に何かありましたか?(笑)

と聞きたいくらいのレベル。

まぁ、おかしな箇所は
改変されてるかもしれんが(笑)

でも、
たぶん
宮部さんは
団地住まいじゃないと思うの(笑)


まぁ、そんなこんなで
今回「火車」を読み直したら、
昔は気づかなかったけど
結構いろいろ不自然だなと思いつつも、

女性に対しては
(特に若い女性、美人であることを武器にしている女性に対して)
ものすごく冷たいな
と。

一切の救いと同情の余地のないように
意図的に書いているのかと
思えるほどに。

そんなことを考えているうちに
少し以前にやった
サイコメトラーエイジ」の裏読みを思い出しました。

もし、「火車」で
サイコメトラーエイジ」のときのような
別犯人が存在したら
ということですね。

視点を変えると
ストーリーがガラッと変わってくる可能性もあります。

例の女子高生コンクリート詰め殺人事件や
東電OL事件くさい匂いが
漂い始めます。

とある一人の女性がいて
その人間を追い込みたいと思っている人達がいるわけです。

あらゆる手段を使って
その女性を追い込み、
人間関係を断ち切らせて、
酷い目に合わせたいと
思っている人達がいたら

それは可能です。

単に気に入らないという理由だけで。

リリイ・シュシュのすべて」も
そうです。

輪姦された女の子が
何故そういう目にあったのかと言うと

「気に入らなかったから」
「ピアノが上手だったから」
合唱コンクールの練習で偉そうだったから」
「一種独特の雰囲気を持っていたから」
「美人だったから」

クラスメイトの女子が
同級生の男の子達を唆したわけです。

そのあとのその女子の言い分は、
「ちょっと締め上げてやってもらいたかっただけで
レイプしろとは言ってない。」

けど、たぶん
そういうことをやってる連中が
そういうことをやるだろうと見越して
言ってるわけで。

スーフリの宥め役をやってた女の子達も
おんなじです。

要は、マスコミ(局アナ)志望のライバルを
自分達が勝てなさそうな相手から順番に潰していってたわけです。

全部同じですね。

となると、
もし「火車」を裏読みすると、
とある美人の女の子がいたとして、
その女の子を酷い目に合わせたい
と思った人達がいたとします。

本人に落ち度が見つからないので
家族を攻めます。
父親のマイホーム願望を煽って
無理なローンを組ませ
厳しい取り立てを行って
一家を離散させます。

で、
関係のないその女の子まで
執拗に付け狙って
ついには自分達のオモチャにする。

実際、「火車」にも
書かれています。

「取り立てを行っている
暴力団の構成員の一人に目をつけられて」

と。


法律も
警察も
誰もそういう女の子を
守れないどころか
見殺しにしたわけです。

それで終わると
それは悲劇です。

事実が明るみになると
暴力団はもちろん、
警察への糾弾の声が上がり、
法整備が叫ばれることになる。

そうなると
何故か都合が悪い人達がたくさんいるので、

事実がねじ曲げられる。

その人達にとって一番良いのは
被害者を同情に値しない人間にしてしまうことです。

例えばそれは
犯罪者に仕立て上げること
とかね。

東電OL 事件は
真面目なエリートOLだったが、
裏の顔があって
実は夜な夜な売春行為をやっていた
とかいう信じられない事実があった
とかね。

人々の同情を
微妙に外させる
沈黙させるような
そういうのが
いいわけです。

90年代
芸能界はヌード雑誌も
多く出版されてましたけど、

菅野美穂
いきなりヌード写真集を出版したときが
一番びっくりしましたね。

そういうのを
一番やりそうにないタイプだと思っていたので。

後から
菅野美穂のヌード写真集を
見てみましたけど、

絶対に彼女が発案したやつじゃないと
断言できます。

当時、菅野美穂
売れっ子で
バラエティーにもよく出てたし
話を聞いていても
さっぱりしていて
人気がありました。

モデル雑誌におしゃれな芸能人としても出てたので、
女子にも菅野美穂のファンは
多かったから
菅野美穂の洋服のセンスとか好みを知ってる人は結構いた。

演技も上手だったので
売れなくなったから
というのはあり得ないし、

みんな疑問に思っていたけど
記者会見で
本人も泣いていたし、
明らかに嫌々だったと思います。

そのとき、ひとつの噂をネットで知りましたが
どうやら東北に住んでいる彼女の両親が
借金を抱えてしまった
とか。

まさに、「火車」のパターンと同じですよね。

たぶん、いるんですよ。
気に入らないという理由だけで
なんでもやるような人達がね。

火車」で
ボケという犬が殺されて
悲しんでいる少年に仕返ししてはいけないと諭す場面で
家政夫(←男の人です)が
言うには、

「気に入らないというだけでなんでもやるやつはいる。
でも、そいつらが謝ってきたら許してやれ。」

みたいな。

気に入らなくて
他人の大切にしているモノや命を
壊したり、傷つけたり、殺したりするやつは許されるの?

違法な取り立てを行って
自分がそうしたいと思っただけで、
もしかしたらそのことで死ぬかもしれないほどの
非人間的行為を行っている人達は許されるの?

それなのに
散々酷い目に遭って
非人間的な扱いを受けて、
何も発言できないようにされて、
おまけに犯罪者にまで仕立て上げられた人間は
そのまま死ぬべきなの?

その価値観
おかしいと思うんですけど(笑)

ちなみに、「火車」のラストシーンまで
全て「状況証拠」なんです。

だから
自白させるしかないんですけど、
自白シーンはカットされているんで
たぶん逮捕とかはできないレベル。

おそらく、
こういう何か実際の出来事が
あったんじゃないかなぁ
と私は思います。

やはり
実際の未解決事件と
似てるんですよ。

未解決事件は
いろんな意味で
解決できない事件ですから。

だから、実際の事件を
少し変えて書いてあるとか。

その際に、ある特定の人達の都合が悪いことにならないように、
そして、世間の波風を立てないように
ってことなんでしょう。

こういうのも
見る人が見たらわかるはずなんで、
わかる人間は
徹底的に排除していってるんだろうな
と。

そして、チラチラ見え隠れする
犯罪に対する
エゴと生々しさは

その犯罪に
実際に対面した人の
そのままの描写だと思いますよ。

きっと一番印象に残ったのが
それだったんでしょうね。

ゆでたまご
白い剥き身みたいに
目を向いている女性の死に顔とかさ、

今、目の前で死んでいく人を見てないと
出てこない発想ですよ。

だから、きっと
その場にいたんだね
っていう。

そんな風に思いますね。

それを
チラチラと
見せびらかすように
書いているように思えますね。

そんなやつ
頭がおかしいとしか。

私にストーキングしてる人達は
火車」が好きそうだから
なんか
そういう人達も思い出してしまいました。

特に、成りすましとか
火をつけるところとか
十八番みたいだし(笑)

やつらの人生の
教科書なのでは
と思うほどに一致してます(笑)

ミステリーは
事実に構築された
架空の世界ゆえに
汚い人間どもの道具にならないよう
祈るばかりです。

以上、
あくまでもこれは
宮部作品の特質であって
宮部さんの人柄について書いているわけじゃなく(笑)

まぁ、文は人なり
と言って
その人の人柄が
微妙に滲み出てくるのは当然
ですが、

可能性としては
宮部さんじゃなくて
ゴーストの人が書いた可能性だって
ゼロとは言えないわけで(笑)

そのほうが
すんなり解釈できる気もしますね。

男の人が書いたもの
と。


いや、BBAの本質ってそんなもんかも(笑)

まぁ、宮部さんも
いろんな人格をお持ちで
少年の人格も持っていらっしゃって
人間に対して怒りがある場合には
逆にそういう残虐な精神を持った人格が生まれて
その人が書いてるときには
そういう感じになるのかもしれないし。

そもそものネタ元が
そういう事件の関係者から
その人の言葉を用いて
そのまま書いてるとかいう可能性もあるかも。

でも、最近思うのは
出版界も警察関係者多そうだよな
っていう。

で、書いた人間がどうであれ、
元々の作品がどうであれ

それを自分達に都合がいいように
メディアで拡散している人達は
いつの時代にもいて、

いつもやり方が同じで、

今回も同じことを繰り返している。

でも、現在は現在で
似ているけれども
少し状況が違っている。

とにもかくにも、
私が現在宮部作品について
思ったのはそんな感じです。

事実は小説よりも奇なりとは言いますが、
最近、これのネタ元は
実際の事件なんじゃないかな
と思うことが
しばしばある。

まぁ、
昔、音楽関係者で
本人の人柄がどうのこうのっていうことばかり書いてた人達
(主にろっきんの人達だったと思うけど)に
つまんないし
プロにあるまじきみたいなこと書いたかもしれませんけど、

私の今回の文章は
別に宮部みゆきさんの人柄とかについては
全く書いていません。
(実際にお目にかかったことも、
お話したこともありませんし(笑))

あくまでも
文章から滲み出てくる作者の考え方についての違和感とか
作品から見える特質について
自分なりにいろいろと考えてみただけです。

その辺りの違いすらわからない人達も
いるみたいだから
めんどくさいけど
少し補足でしたが、

まぁ、そういうことを言っていちゃもんつけてくる人達は
その人達の理解力不足だから

いつも書いているように
難しいと感じたら
別に読まなくていいですよ?(笑)

ほんと、そういうの
めんどいんだよなぁ。(笑)

さて、
宮部さんの作品に出てくる少年は
宮部さん自身なんだろうと思うことにして。

その男の子は
自分と世界しか存在しない頃の頃の自分なんじゃないかな
と。

だから性別を認識すらしてない。

もう10年くらい経つけど、
宮崎駿監督が「風立ちぬ」を作ったときに

世界は少年時代の自分にしかない

というようなことを
言われていたけど、

それと
同じなんだと思う。

誰かに影響され、
誰かに影響を与え、
自分が何のために生きているのかもわからず

ただ、幸せになりたいという思いだけあって

そのことで
他人を犠牲にしたり
他人の犠牲になったりする。

それが
社会という場所で
生きていく人間の
運命だ。

だから、昔の人達が
世を捨て
一人で生きて、
世界の真実に到達したという、
そういう人達がいたのも

もっともなことだと思う。

宮部さんが女を嫌いというのは
なんとなくわかります。

女というのは
とても本能的であり
社会的である人間の典型だから(笑)

だって
人間を産むからね。

そして、
それが正しいと思ってる。

社会が
そう教えているから。

子孫繁栄のためには
産むことは
正しいと。

だから、
子供を生むことで
勝ったとか
負けたとか言う人達がいるけど、

それもまた
人間様の社会という
狭い世界でのヒエラルキーに洗脳されている人達であって。

どんな人も生まれてきてくれて
ありがとう
という言葉は

実は正しくない。

別に人間以外の
生き物はそう思わないので、
世界の真実ではない。

けれど、
人間同士で
生まれてこなくて良かったのに
という言葉をかけられたら
その人間に生きる価値はない、


少なくとも言われた人は
そう感じるだろう。

でも、それも
別に世界の真実ではない。

それは、
その言葉をかけた人間の気持ちであって、

その言葉をかけた人間が
どんな思いでその言葉をかけたのか
わからないけれど、

それはその人の価値観である。

人間にはいろんな人がいる。


それを考えるのもまた
世界の真実を知るための
ひとつの方法だ。

そう言えば、

以前、
12月に書いた記事に

お誕生日の人もそうでない人も
お誕生日おめでとう

と書いたことが
ありましたけど。


なんか、
それにも呪いをかけてる人を
最近、よく見かけるんですけど(笑)

なんだろ?

たぶん
私が言ってるのと
違う意味だと思うけど(笑)

そういうの見ると、
なんか
きもいんですよね。

このブログの
トップにピースキーパーで
だぶるぴーすな
Tonyさんのかわゆい絵を貼らせてもらってるけど、

最近
うんこな博多駅にも
やたらピースサインがあって

それを見たら
なんかきもいんです。(笑)

わざとマネされてるのかと思って
よくわからないけど
不愉快な気分(笑)

とか書いたら
余計にやるんだろうけど。

たぶん嫌がらせだから
気にはしないけど。(笑)


ねちむねたんの
会報もそうだったけど、

愛とか平和とか
ピースとか思いやりとか

全然持ち合わせてない人達のほうが
そういう言葉を使いたがるよね。

昔のロックの人達が
使っていたからって、

それをアイテムみたいに
ぶら下げても
今の君らがロックだとは
全然思わないし、

たぶん本家の人達を汚す行為にしか
ならないと思うよ?(笑)

まぁ、いつものことだけど。

他人の真似事をするなら
本家の人達に敬意を表して
自分がそれにふさわしい人間かどうか
少しは謙虚な態度に
なって反省してみることが
大切だと思うの(笑)

それから、
わざとそれを違う意味で使ったり、
呪いをかけたりしても、
それは結局
自分達に帰ってくるよ?(笑)

あと
人に嫌がらせしたら
その人からは
「お前なんか死ね」と
言われるでしょう。

「生まれてきてありがとう」
なんて
言われないから(笑)

それは
世界の真実です。


まぁ、自分達の都合がいいように解釈しかしない人達だから、
言っても仕方ないから
諦めてますけど、

正直嫌がらせはうざいし、
たぶん
そういうことをやってる人達とか
見る人達が見たら
おかしいとわかるので(笑)

例のピースマークとかも
飾りでつけてる人達とか
「あの年代の人達多いよね。ださ。」
と失笑されてることが
多いよ?(笑)

うーん、
まぁ、表現が難しいけど
お洋服と同じで
いいお洋服も
着る人によってダサくなるじゃん。

全然似合ってないっていうか。
むしろ見てるほうが恥ずかしいっていうか。

ねちむねたんのピースマークも
博多駅ピースサイン
それと同じで
普通にダサいって感じです。

はっきり言うと
そんな感じ(笑)

そういうことをする人達の特徴として
本人がそのことに気付いてない
っていう。

まぁ、周りの人達も言いづらいんでしょうけど、
私とかははっきり言っちゃうタイプなので(笑)

チャックが開いてますよ
とか(笑)

指摘してあげてる人に
「ありがとう」と言うことまでは全然期待してませんが、

私自身が不愉快なので
言ってるだけです。

社会の窓を開いて歩いていると
ワイセツブツ陳列罪になるかもよ?(笑)
ってくらい

罪になることに
気付いてほしいだけです。

とりあえず、うんこは
やめてほしいのです。

まぁ、個人的な希望です(笑)

私は
楽しい雰囲気が好きなので
楽しくするのが好きです。


もうすぐクリスマスなのに
今年はあんまり楽しい気持ちにさえならない。

(今年「も」かしら?(笑))

エス
人間の罪をかぶって
神様になった。

人前で裸にされ
手に杭を打たれ、
磔にされ、

炎天下の十字架に
さらしものにされた。

それを行った人間の
その罪深さを
人間に知らしめるために
人間に忘れられない存在となった。

その神様の力を
自分の盾にする人が
たまにいる。

将門の首塚
皇居の近くにあるのは
皇居を守るためにある
という説がある。

それが
敬虔な気持ちだったら、

神様も
守ってくれるだろうけど、

単に自分を守りたいだけで
利用している人達を
神様が守ってくれるわけない。
(別に皇居の人達に言っているわけではなく、

神様を「利用」している全ての人に言ってます。)


現に
神様の名前を叫んでは
争いを繰り返している人達は

一生争い続けなければならない。

それは、その人達が
選んだ運命だから
仕方ない。


そんな、12月も目前の
晩秋の午後。

すっかり
日が落ちるのも早くなり、
17時にはもう暗くなってきてます。


あ、前回のタイトルについて
ですが、

「サイレント メビウス
というのは
夏頃からなんとなく頭にあった言葉です。

前回のブログの下書きを書いたあとも、
ふと思い浮かんで、

まさにぴったりだな
と思いました。

メビウスはドイツの
天文学者であり
数学者でもありました。

だから、まぁ
「サイレント メビウス」というのは

笑わない数学者
でもあるわけですね。

メビウスリングも
そのとき私の考えていた
イメージにぴったりでしたし。

我ながらすごい
と思いました(笑)

いわゆる
メビウスリングとは
例の∞のような形をしているのですが、

もともとは「メビウス帯(mobius strip)」と言って、

長方形の対角を
180°くりっと回転させて得られる図形
(長方形の紙片を180°ねじって両端をつなぎあわせた曲面)なんだそうです。

あれから、少し本屋さんで
メビウスの理論を
読んでみましたけど、

結構おもしろそうなので
また今度ゆっくり考えてみたいなと思います。


そう言えば、昔、
パソコンの機種で
メビウスってあったなぁ。

どこのメーカーのだったかな?

1999年の12月の暮れに
起こった事件

それがすなわち世田谷区一家惨殺事件でした。

この事件が未解決になった経緯として、

交番のお巡りさんという存在があると
私は考えています。

例えば、誰かが
誰かを殺しても
闇に葬る人間がいます。

家族がまるごと
一晩で消えても
「借金で夜逃げした」と言われたら
それまでです。

そんなことは
火車」でもあるように
90年代まで当たり前のことでした。

それが、世田谷区一家惨殺事件で
上手くいかなくなったのは
予定より早く事件が明るみになった
からです。

犯人たちは単なる物盗り目的の強盗殺人犯ではなく、
被害者宅に
かなりの時間長居していたことは
以前書きました。
(何か探し物をするかのように。)

そのために、
人々が誰も彼も
自分達のことで手がいっぱいで
よその家にまで気持ちが向く余裕のない
年末という時期に犯行が行われた可能性もある。

そんな時期に
異変に気付き
或いは何らかの手段を用いて

警察に通報が行われた。

そして、その通報システムは
既に一瞬で
全ての人にその事実を伝えるように出来上がっていた。

当たり前のように
付近の派出所の警官が
駆けつける。

犯人達が死体の処理を
する前に。

その並べられた死体を前に、
誰もそれから
「夜逃げした」
なんて嘘をつけないはずなんです。

そして、その交番のお巡りさんは
当たり前にその事実を証言することになる。

その情報は
年末とはいえ、
すぐに事件現場周辺に
広まる。

ネットを通じて。

マニアから
警察無線の盗聴まで
行われていた可能性も
ありますね。

だから、隠しようが
なくなった。

いくら、事件後に
証拠隠滅を図ったり、
マスコミに嘘情報を流そうとしても、

「リアルタイム」には
勝てなかったんです。

よって、この事件を
「未解決事件」にするしかなかった。

たくさんの不自然さを
残して。

この事件のあと、
2000年に入ってから、
日本ではさまざまな出来事がありました。

小泉元首相(自民・公明)政権下による
公的組織の民営化や
不景気からの脱却を図るための'国民と痛みを分かち合う'政策
などですが、

私の記憶に残っているもののひとつに
警察機構の改編というのがあります。

要は、
派出所(交番)の数を減少
させて、
都市部にのみ警官を集中させるというようなもので、

「自分達の」意思が「正確に」「素早く」伝わる組織にする、
人目のない閑散とした地域から警官を少なくし、「人材」の最適化を行う

といったようなもの
なんですが。

当時の新聞にも
過疎地において
住民とともに暮らしながら
付近の安全を守ってきた

まるで家族のような
交番のお巡りさんの話が
載っていて、

その交番も組織の改変で
なくなる
というような記事があったのを
記憶しています。
(自分達が住む地域の交番の人達とは
えらく違うなと思ったのを
覚えています(笑))


何のためにそんな警察機構の改編をしたのか
いまだに謎ですが。

それから、例の2000年問題を期に、
おそらく
さまざまな公的機関で
「システムの見直し」も
行われたはずです。
(例のwinnyの事件(主に官公庁など公的機関での情報流出事故)も当時起きたシステム系の事件のひとつですね。)

よって、
通信システムの整備(盗聴防止=「自分達」以外に情報を与えない仕組みへの改変)、
※システムは「外部」へ委託。

なんか
こういう
行政上に起きた改変の出来事と
世田谷区一家惨殺事件を同時に見ていると、

不思議と共通点が
見えてくるんです。

何との共通点かって?(笑)

それは、世田谷区一家惨殺事件の
「犯人達」の反省点です。

・被害者の味方である警官が
事件現場に迅速に到達することの排除

・自分達の味方がすぐに情報を指示できる仕組み

・通報ひとつで情報が迅速に伝わるシステムの改変

ね?

一緒でしょ?(笑)

そうしたら
これは
どちらの立場から
言ったものかしら?


・残された遺族の保護
(「犯人達」による口封じのための対策)


残された遺族というのは、

「被害者宅の隣に住んでいた姉夫婦と被害者の母親であるおばあちゃんで
姉夫婦は普段は海外で暮らしているが
その年末だけ帰ってきていて
事件当日も隣にいたが
あれだけ人が殺されたのに
物音ひとつ聞いておらず
朝になって何故か隣に行って不審に思い警察に通報後、
'鍵がかかった'ドアを開けた向こうに数々の死体を発見した」
という遺族の方です。

そのうちお婆さんのほうは
「何か思い出したとき」のため、
と「犯人達からの保護」のため、
始終警察の監視下にあったみたいです。

お姉さんのほうは
「被害者遺族」としていろいろな講演を行っている

「よくお話される」方
みたいですね。

お婆さんはつい最近、
亡くなられたという話を
「たまたま」新聞で
見かけました。

残念です。

本当に1999年というのは
いろんなことが
あった年だったなぁ

改めて思います。

そんな1999年をやたらと思い出すのは
偶然なのか
神様の思し召しか。

どうでしょうね?

皆さんは
1999年12月は
どのように過ごしていましたか?

申し訳ないですが、
この年、月にピンと来ない方は
たぶん無関係というか論外でしょうけど。

でも、
まぁ、「今回」初めて関係する方、
このブログを読んでいる方々は
恐らく無関係ではないでしょう。(笑)


私は当時、
卒論を書いていました。

1月年始過ぎが
締め切りで
それはもう大変でしたが
なんとか無事提出できました。

12月の暮れは
それこそ
死にそうになりながら
日本の神様の物語を
辿ってましたが。

だから、
きっと
「今回」のことは
偶然ではなく、
神様の思し召しだと
私は考えています。

ひとつ言えることは

神様は見ている

ってことと、

だから

死人に口なしには
ならない

ってことです。

神様の思し召し
っていうのは、

あのとき、
一家惨殺をした犯人達が
殺害現場に長居してまで
探そうとしたもの

です。

そして、それは
被害者家族の
本当の気持ちだと

私は考えます。



神様のお誕生日に

全ての人々が

生まれてきたことを
祝福できますよう

あまねく

神様の力が

この星を
包みますように。

そして、
こうも思います。

その人々の
祝福を悪意によって
妨げる者共に

天罰を。


それが、

私の切なる願いです。

ついに
「天罰」と口走る人まで
出てきたので

こちらも
追加しておきました。


あなた方の呪いは

私はハネ返しますよ?(笑)



そんなわけで、
今回はこのあたりで。

あっという間に

クリスマス、

そして
晦日

年越しですね。


今年も
無事に年末を過ごせますように☆ミ

メリークリスマス☆


www.youtube.com



ではでは、またねー(´∇`)♪