花嫁は死神。後編(1/2)


さてさて、後編です。

今回のタイトルの意味は
別にありまして、

私が関与してきたこと、
また、関与されてきたこと
として
ここ数年の出来事には
もちろん関係してます。

まぁ、以前
桃太郎の鬼退治の話について少し書きましたが、

たくさんの人達を煽動するためのプロパガンダの材料として
ある特定の人達が
自分達以外の敵味方を区別するために

鬼とか死神とか悪魔とか

わかりやすい負のイメージを伴うキーワードで
相手をラベリングすることが
よくあって、

まぁ、昨今もそういうキーワードがあふれてますが、

そういうキーワードを用いて
特定の人達を排除するわけです。

そうそう、MONSTERとかは
そういうのに便乗した感じになりますけど、

例の炎上を利用して売名やってるみたいな感じに似てますね(笑)


前も書きましたけど、
私もいろいろ言われましたねー。

鬼、悪魔、吸血鬼、ゾンビ
などなど(笑)
それから、悪い方の魔女ね。(笑)

あとは、死神とかも言われましたし。

まぁ、
例の寄生虫の人達(集団ストーカー)が
私にもついてるので、

私が近づいた相手も
自動的に寄生虫につかれるし、
相手が弱いと
それだけで相手が死んでしまう可能性があります。

なので、集団ストーカーどもは
それを、自分達のせいにはしたくないので
もちろん私のせいにするわけで、

結局私が近づいた相手を
殺しているのは
私だということにされてしまいます。

奴らは私のことを
こんな風に言います。

私が相手を
「好きだから殺してしまう」

と。(笑)

表現としては
一見、
文学的かつ哲学的
ですが、

いつものごとく
話をごまかしてるだけです。

私、別に好きな人を
殺したりしません。(笑)

相手を殺すような窮地に
追い込んでる人達は
私でなく別の人達ですから、

そういうことが
繰り返し起きるので
仕方なく

相手が死ぬのを見てます。
(実際に死ぬわけではないですけど
社会的に再起不能なレベルにダメージを受ける人もいます。
最近はそれを利用して売名してる人もいるみたいですが、
そういう人達は
もともと寄生虫側の人達なので
ほっとけば死にます。)

なので、
私としては
実際になんやかんやあっても
最終的には
傍らで見てるだけなんです。

今回も弱かったな
って。

まぁ、私も
毎回ギリギリのところで
生きてますが。

そう言えば、
洋次郎くんが
歌っていました。

「僕は病気なの?」
って。

うん。

私には
そう見えたの。

まぁ、
洋次郎くんが
っていうより

周りの環境含めて
私にとって
「危ないな」
と。(笑)

どっちにしても
アーティストと
そのとりまきは
一心同体なので
どっちがどっちとも
言えませんけど。

だから、
近づかないようにしてる。

みなさんも
私に近づかないほうがよいですよ。

なので、
1人でマイペースに
生きてますけど、

それでも奴ら(寄生虫ども)は
私についてまわる。

まぁ、ストーカーってくらいだから
目的があってついて回ってるわけで、

たぶん
私が仕返ししないように監視するのが目的なのと
私がなんか良さそうなものを持ってたりすると
盗んで帰ってるみたいですね。

自分達で考えられない馬鹿だから、
私が自分の何もない生活から
楽しいことを見つけるたびに
それを横取りしていきます。

まぁ、それも嫌がらせのひとつなんでしょうが、

やつらが寄生虫と呼ばれる
ゆえんのところであります。

昔、田辺聖子さんのエッセイで
野坂昭如さん(「火垂るの墓」の原作者の方です。)が
自分の著作を「排泄物」と
断言していたと
書いていました。

多分、同じようなことを
他の作家の方も言っているのを見たことがありますが。

昔、森村誠一さんが
「自分達のやっていること(モノを書くという行為を含めると思いますが)は
過去の人達が積み上げてきた石の上に
もうひとつ石を積み重ねたにすぎない」
と言われていた
というのをブログに書いたことがありますが、

よく言えばそんな感じですけど、

野坂さんの言うように
「排泄物」と言われてみると
そうだよな
とも思います。

そもそも、この世の中に
誰からも影響を受けずに生きている人はいないのですが、

例えば誰かの著作を読んで
そのような「排泄物」を「肥やし」として
自分の花を咲かせることは
あるでしょう。

ただ、最近の人達は
「排泄物」をそのまま利用するので
結局、「うんこ」なんだな
と。

最近そのことに気づいて
すごい納得したんですよ(笑)

だから、最近
どこもかしこも
「うんこ」だらけなんだな
と(笑)

なんか見たことあるなー
とか思ってたら
だれかの「うんこ」を
そのまま利用してるから
「うんこ」なんですよね。

臭いはずです。

そのまま利用すると言っても、
自分達が拾ったり盗んだりしたものを

自分達に都合のよい形に
適当に形を作り替えているので、

元のしっかりした原型をとどめているわけでもなく
誰かが踏んづけたあとの「うんこ」みたいに
異臭を放っているときもあります。

まあ元のうんこがどこから仕入れたか
元ネタを明らかにして
同じようなことをやっている場合もありますが、
それをやつらは
「コラボレーション」と
言ったりします。

前も書いたように
「コラボレーション」でも
何故かしら
うんこ臭が漂っています。(笑)

たぶん
「コラボレーション」の意味がわかっていないんでしょうけど、
奴等にとっては
養分(お金)が自分達のところに入れば
それでいいんだと思います。

ちなみに
コラボレーションしている両方ともが
うんこの原型をとどめていない場合もあります。

まぁ、ともかくも
そういう「うんこ」の仕組みがわかったので
すっきりしました。

ご報告までに(笑)


寄生虫のやつらがやっている行為は
人間界においては
そんな感じなんですよ

教えてあげているわけですが、
特に私の近辺でされている嫌がらせから判断するに、

それらは
人間界で言うところの
民事事件ではなく
刑事事件に相当します。

何か勘違いされているようなので、
一応教えてあげておきますね(笑)

で、
話は戻りまして。


この間
クロノス(サトゥルヌス)のことを書いたときに

前に私が
「クロノスの大鎌を持っている」と
書いたことと合わせて
前回このタイトルにしようかな
とも思ったんですけど、

季節的に
6月のほうがいいかな
と思って
今回このタイトルにしようと
決めてました。

まぁ、コロナもそうですけど
意味不明の原因で
たくさんの人が死んでいく
昨今の世相って

まさに魔女狩りの頃と
同じなんですよね。

得体のしれないもののように見えるんですが、

元を辿れば
結局、
人の欲望とか嫉妬とか
負の感情から生まれていて

それを相手に投影することで
実際に相手を殺す

というような
それこそ「呪い」のようなものです。

だから、
鬼とか死神とかいう言葉は
今の時代にもしっくりとくる。

鬼とか
死神を毛嫌いしている人達は

たぶん
そういう感情を自らの内に持っていて

それを相手に投影してしまうのですよね。

まぁ、それは
まだいい方で、
誰にでもそういうことはあるから
仕方ないけど、

そういう感情や「呪い」のやり方を知ってて

人を煽ったり、
争わせたりしてる奴等が
一番ダメな奴等だと思うんです。

「呪い」を使った
人間は
その倍は不幸になるから
「呪い」なんて
悪いことに使わないほうが
いいんですけどね。

なので、たぶん
「呪い」を使って人を陥れている人達は
死ぬとき地獄をみますね。

絶対(笑)

私は、
鬼も死神も吸血鬼も好きですから(笑)

まぁ、でも
ゾンビは
群れるし、見た目に美しくないから
好きではないけど。

あいつら
しつこいからな(笑)

まぁ、あの人達にとって
自分達が殺した相手が生きていた、
っていうことで
人のことを
ゾンビって言ってたわけなので、

鬼とか死神の場合とは
ちょっと違うから
別にいいか。

ちなみに
やつらのほうが
よっぽどゾンビに近いなと
私は思ってますが。

過去の遺物とかを持ち出してきて
どろどろの状態で
そのまま使ったり、作り替えたり
自分達がそれに成り代わったりして←(笑)
気持ち悪い人達だな
と。
(自分達ではその気持ち悪さに気づいていないんだとは
思いますが(笑))

よく考えたら
上記の「うんこ」説と
同様ですね(笑)

さすが野坂昭如さんだけある。

野坂さんは
下駄を履いているのが有名で、

締め切り前に
旅館で缶詰めになってるときとか
原稿を待ってる編集者が
下駄があるからと安心していたら
二階から抜け出して
飲みに行ってたらしい(笑)

作品なんて
できるときはできるし
できないときはできないのだから
昔の編集者は
それをわかってて、
それでも原稿ができるまで
ちゃんと待ってたんだろうな
と思いますけど。

まぁ、その原稿が
出版社にとっては
大きなお金をもたらすので
大人しく待つのは
当たり前っちゃあ
当たり前なんですけど、

いつからか
作家の威厳は落ち、
編集者達の方が
偉そうになって
今に至るみたいですが、


作家のレベルが落ちて作家とも呼べないような素人が本を書くようになったのと
見識のない金儲け主義の傲慢な編集者が増えたのと
おもしろい作品を見分けられない馬鹿な読者しか
いなくなったのが
原因でしょうね、きっと。

あとは、
そういう活字だけの世界を
見限って
映像の世界が持て囃されるようになったこととかもあるかな。

そう言えば、
筒井康隆さんが
作品を生み出すときの心境を

いきんでうんこを出すときの感じ
と言っていたらしいですね(笑)

筒井康隆さんも
途中で「断筆宣言」されて
作品を書かれなくなりましたが。

それを才能がなくなった
みたいに言う人もいるけど、

今の時代
自分の作品の良さとか
誰もわからないと思うだろうし、
書きたいものも
書かせてもらえないし、

書いても
お金儲けに利用されてるだけと思ったら
書きたくなくなるよね。

漫画家の冨樫さんが連載を中断してたのとか、
井上雄彦さんが「バガボンド」の続きを書かないのとかも
似たような心境かも
とか
考えたことがあります。

インターネットの世界が開けてきて
誰もが自由に書ける時代が来て
光明が見えた気がしたけど、

そういう
ネット上の損得なしの世界で
文章書いてる人達まで利用して
金儲けのためのニワカ作家がこんなにも輩出される世界になろうとは(笑)

しかも、そのニワカ作家達もまた
なんていうか
まんざらでもない感じで
人前にしゃしゃり出てくるんですよね、
恥ずかしげもなく(笑)

なんか
どこから出てきたのかもわからない
おばちゃんとか。

予想通り
たいてい
しょーもないのを一作(或いは、二作か三作(笑))書いて
終わりみたいですけど。
(何度も言うようですが
読んだことないけど、読まなくてもわかります。)

なんでもいいなら
読まなくていいんじゃないかという
当たり前の理屈になります。

まぁ、新庄とかも
本を書く時代だから(笑)
(↑思い出したらわらけてきたw)

でも
みなさん
よく、そんな
「うんこ」だらけの世界で
満足できますよね?

私は無理だわー。

だって「うんこ」だもの。

なんのためにやってるのかしらないけど
臭さが異常だし
見るだけでいやな感じですよ。

この間、
自転車での帰り道に
犬の散歩してるおじいさんがいて
犬のうんこを透明のビニールに入れて歩いてたけど、
そんな感じ。(笑)

その近辺の景観すら
損なっているようにも思えるけど
みんな、何にも思わないのかしらね。

不思議です。

私はそのうんこをぶら下げたおじいさんに
遠くから気づいていたので
それを見ないようにしたからよかったけど、
まともに見てたら
夜ご飯とか喉を通らなかったかもしれないと思うと
冷や汗モノです。

デリケートな人は
夜も眠れなくなるかもしれない(笑)

まぁ、
この例えは
おじいさんだから
ちょっと気が利かなかったというのも
あるとは思いますが。

ワタクシ的には
最近の世間の人達の
価値観はおしなべて
同じような感じです。

まぁ、嫌がらせで
わざとやってるのも
あるんだろうけど。

だから
俗世を離れて
一人の世界にいたほうが
心安らかに過ごせるというもの。

話がだいぶそれましたが、
タイトルについての話でした(笑)

続けます。

鬼は悪い子に罰を与えるためにやって来る。

死神は死ぬと決まった相手しか殺さない。

前回、
星の配置と世界のこれからについて
書きましたが、

星の動きって
ほんとに神様が決めたスケジュールみたいだな
って思いました。

特別な星の配置は
何かのタイミングを知らせる
フラグのようなもの。

きっと
人間が生まれ、死ぬことも
世界の始まりと終わりも
決まっているのだろうな

思わざるを得ません。

最近、また
バガボンド」を読んでいたんだけど、

''運命は天により決められているが、
それゆえに自由''

というような
感じなのかもな
と。

なので、
私が星の動きを読んだり、

こうやって
雨の降る日に

たまに、
その雨を見やったり
雨の日の空気を感じたり
匂いをかいだりするのも

きっと
私が世界とつながっていて
なおかつ
自由に生きているということなのだな
と思いながら、

今、ブログを書いています。

ちなみに
前回のブログの記事のタイトルは
森博嗣さんの著書「有限と微小のパン」より
借用させていただきました。

There is not fraction of truth.

というのは、

ちょうど英語の辞書を見ていたときに

たまたま目にした例文です。

fraction というのは
否定語を伴って
''少しも~ない''
という意味になる言葉で、

上記の英文は、

''少しの真実もない。''

という意味になります。


この一文を見たとき、
まさに
嘘だらけの今の現実世界みたいだな
って思ったのと、

森博嗣さんの著書の

すべてがFになる

を思い出したんです。

森博嗣さんの
すべてがFになる」では
Fというのは
16進数のF」のことですが、
(↑ネタバレするので、知りたい人のみ反転して読んでください。)

そう言えば
Fから始まる英単語って、

リアル世界の否定というか
虚構
架空
を意味する言葉が
多いな


ふと思ったのです。

fault
faulse
fiction
fantasy
fake
... and so on

現実世界のすべてが
虚構になったとき

あるいは
現実世界のどこにも
真実がなくなったとき

何か起こりそうな

そんな気がしました。

「有限と微少のパン」は
すべてがFになる」からの
一連の収束値としての作品だと思うのですが、

すべてがFになる」の副題が
 perfect insider
「有限と微少のパン」の副題が
perfect outsider
というのは
以前も紹介しましたが、

有限と微少とは
すなわち放物線であって、

パンとは
すなわちイエス
分け与えた命であり、

人が生きるための糧として作られた
ひとつのモノでもあるわけですが、

それは
結局、
神様の創造物なのか
人間が作り出したモノなのか。

「有限と微少のパン」
とは
つまり、
新しい命が
放物線によって描かれる
ということを意味していて
(と私は考えたのですが)、

「有限と微少のパン」は
バーチャルな世界の始まりが
描かれています。
(前にも書きましたが。)

ちなみに
fractionというのは、

上述の
エスが分け与えた命
という意味もあるんです。

なんか
いろんなことが
符号して

それが
今年のイースター期の
答えだと
私は思いました。

なんだかんだで、
今年の2月から5月下旬まで

このブログで書いてきたことは
私のそのときの
思考の一連の流れだと思うんですけど

見返してみると
やはり
そういうことだな
と改めて思うわけです。

そんな感じで、
私の日々の生活は

いまだに
些末な世事に追われていて、
相変わらず
嫌なことばかりな毎日です。

お仕事探しも
いろんな妨害にあいながらも
地道に続けています。

先週の金曜日(6/17)に
母校のQ大に図書カードの更新をしに行きました。

すっごい晴れてて暑い日に
自転車で伊都まで!(笑)

ほんとは春頃行くつもりだったんだけど
タイミングを逃しました。←

卒業生ですし、
一応院卒なので研究者として、
図書カードが作れるんですけど、

昔は卒業生の場合
カードの期限は9999年まで有効となっていて、
気前よく
「いつでも利用できるよ!
てか、卒業しても
たくさん本読んで、
たくさん勉強してね!」

みたいな感じで
更新とかしなくて良かったのに、

今では、
「学外」の人と同じ扱いをされているし、
1年毎に更新が必要なんです。

まぁ、更新と言っても
大した手続きもなく
更新手続き書類に
必要事項を記入するだけ
なんですが、
(身分証の提示とかは必要ですが)

学外扱いの卒業生の更新カードは
(後ろに写真は入れてありますが)
ペラペラのラミネートのカードで
(学生証に付帯してるICカードみたいなのじゃない)

しかも更新手続きをすると、
データは更新されてるはずですけど
更新期限を印刷したテプラを上から貼るだけなんです。

前回更新したのが、
二年前くらいで、
まだ中央図書館が出来てなかったので、

それまでは
系図書館で手続きしてもらってました。

で、今回は
更新したときの要領を
覚えているとおり
系図書館で、まず更新手続きして
新しい中央図書館を見て帰ろうかな
とか思ってました。

そしたらさ
図書館の職員が
これまた酷い奴で。


私の日常に関わる人たちが
いかにひどいかについて
今回は、この図書館員を例に挙げて
書いてみたいと思います。

これがまた、結構長くなってしまったので
後編(2/2)へ続きます(笑)