シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

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6/11up記事の続きです。(その②→その③ この記事で終了!)

さて、

今日はねー。

エヴァのことを書くつもりだったのですけど、
前置きが長すぎて。(←前置き?)

既に疲れ気味ですYo!(笑)

(一気に書いてるからね!)


エヴァを見に行ったのは
例のイースター期間中なのですが、

3月もほぼ末頃でしたね。

そう、昨年6月頃エヴァ公開されるとかいうから楽しみにしてると
ブログに書いた後、

「延期されました」

とHPに出てて、

その後に日テレで
エヴァの過去作品(「序」・「破」・「Q」の三作品)が放送されるとあったので

それを改めて見て

それからいつになったら公開するのん?
と思っていたわけだが、

3月中旬頃、
近くのショッピングモール内の映画館付近を通りかかったときに

エヴァが3/9(だったかな?)から公開されているとのことで
見に行きました。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版(繰り返し記号)」(略して「シン・」)

ですね。

あとからネットで見たネット情報に寄ると

4月の時点で44万人動員らしいですね。
(↑舞台挨拶の動画テロップによる)

コロナ禍でこの数字は多いのか少ないのかと言ったら
多いんじゃないですか?

各地でライブとかもできない状況で
コロナ対策した映画館でこの数字ですよね?

まぁ、例の多数決集団が関与しているのは否めないですが。(笑)

(創〇→ジブリ→カラーですね。)


そうそう、博多にキャナルシティというところがあって、
そこに期間限定でエヴァのショップがあったんだけど、

そこをぶらっと見てたときに

例の麻生系の親族の経営する専門学校の生徒が
わざわざ国の育成補助関連で
エヴァとコラボしてプロジェクトマッピングを企画・制作しました
とかいうのが

これまた例のジブリP見習いとかいうわけわからん地位で
ドワンゴのキモい人が一緒に言葉を店内に掲げていたため

ゲーとなりながらも(←吐きそうになった、の意)
見てましたけど、

その時点で
映画を見る前からすごく不愉快になったので
まぁ今回の映画の感想もそんなに期待しないでほしい(笑)

というか
今の気分として「気遣い」モードとかリミット解除中なので
心置きなく書かせてもらいます(笑)

はは。←


今回の「シン・」は、その名の通り「シン・」とついている通り

シン・ゴジラ」とどうやら同じ系統であるみたいですね。

映画が始まる前に、他の映画の宣伝あるじゃないですか。

あれで、「シン・ウルトラマン」ってあったのね。

あの例の日本政府大活躍の「シン・ゴジラ」上映中、そして
その後の地方自治体(各地の創〇住民による、とも言える)の全面的協力体制における
ゴジラ展」の時期に、
再三、エヴァの元祖はウルトラマンみたいなことを言っており(発端は鈴木P)

創〇は円谷プロまで乗っ取りかけてるんだろうな
とは、思ってたんですけど(笑)

今度は「シン・ウルトラマン」かよ

と。

てゆーか、エヴァ公開前にウルトラマンにも手を出していたのか?

それなら先にエヴァを公開しろよという言葉を
ぐっと飲みこみつつ
(書いてるけど(笑))

その「シン・ウルトラマン」で思い出したんですけど、

ウルトラ兄弟をそれぞれの名前で呼ぶときに

帰ってきたウルトラマン」のことを「シン・マン」って呼んでたのね。

ウルトラマンの本にそう書いてあったのです。

カタカナでそう書いてあったので
漢字で「新」なのか、「真」なのか
子供心には判別がつきかねたわけだが、

たしかに「シン・マン」って呼んでた。

それで、もしかして「シン・」シリーズって
帰ってきたウルトラマン」と同じような感じなのかな
と。

ウルトラマンにおける「帰ってきたウルトラマン」の評価は
リアルタイム世代ではないのでよくわからないが、
(私たちはタロウ期あたり)

帰ってきたウルトラマン」は
別にウルトラ兄弟ではあるけれども
実際にはウルトラマンの兄弟ではないんです。

(知らない人に説明すると、ウルトラマンには
ちゃんと個々に設定があり、

家族関係もあるのですよ。

例えば、タロウはウルトラの父と母の子供とか、

レオとアストラが兄弟とか、ね。)

で、「帰ってきたウルトラマン」は
どうも、なんか設定上浮いてるというか、

制作上の設定っていうか、大人の事情っていうか

ウルトラマン」すごい好評だったから
もう一回やってみようか

って感じで作られたんだろうな
というのを子供心に感じたというか。(笑)

なんか、ちょっと違う感じ。

だから、

あー
なるほど、と。

エヴァにおいても多分、別物なんだろうな
と。(笑)

シン・ゴジラ」もなんかいきなり
リアルの日本政府(リアルと言っても本物の無能日本政府じゃない)
とか出てくるし、

なんか違うんですよね。

設定からして。

で、ワタクシ、今回の「シン・」を見て感想を書くにあたり
過去のアニメ作品(WOWOWで一挙放送されたやつの録画)と

「序」・「破」・「Q」の三作品を改めて見たんですけど

やっぱり、「シン・」とは違うっていうか

切り離して考えた方がいいと思いました。



で、映画見たあと、
パンフレットを買って

まず最初にある庵野監督の言葉を見たんです。

タイトル
「我々は三度何を作ろうとしていたのか?」

そして、それに続く言葉として

「デザインの面白さ
 画面・構図の面白さ
 手書きの絵や動きの面白さ
 3DCGの絵や動きの面白さ
   ・
   ・
   ・
結果、完成したのが本作です」


と書いてあったんですが(笑)

とりあえず、

“一般的に「映画としてのアニメ」と言われるものの面白さを見てもらいたい”
ということですね(笑)

と理解しました。

庵野監督の言葉を見て

何書いても通じないし
捻じ曲げられて言われるのが嫌なんだろうな
っていう
庵野監督らしいというか、

最初は
内容についてともかく言われたくないのかな
とかも思ったんですけど

ネットで上映後の反応を見てみたところ、

コア・ファンでの
エヴァ大討論会みたいなのが
開催されたみたいなんです。

内容は見てないのでわかりませんが、

監督陣の舞台挨拶の動画を見たところ

「皆さんのほうがいろいろと細かく深読みとかしていて・・・」
みたいなことを(たぶん前田監督?が)言っていたので

深読み解釈とかはウェルカムのようです。

で、

ふと、思ったんですが

制作陣も内容については確定はしていないというか

意図的にしろ意図的でないにしろ
自由度を持たせたほうがいいのでは

という方針であるのかな

というのを感じました。

自由度を持たせる、
というのは
深読みする人もそうでない人も受け入れられる広い世界観である
という意味で
いい意味でとればそうなんですが、

逆に言うと
エヴァの世界のリアルさに欠けるというか、

エヴァの世界はこうじゃなきゃいけない

という魅力には欠けるというか。


キャラも設定も一応受け継いでいるんですけど、

細かなところが「なんか違う」っていうか

エヴァにしてはベタな設定とかもあって
それ、エヴァでする意味ある?
みたいなことを感じました。


前回「Q」でカヲルくんが目の前で死んで
シンジの精神はある意味崩壊したんですが、

パンフレットの緒方さんのインタビューによると

アフレコ前に

「しゃべらなくなったシンジをどうしたらいいか?
意見を聞かせてほしい」

と言われたそうなんですね。

緒方さんも
「あまりないことなので」

戸惑われたようなんですけれども。


まぁ、いい意味では演者の意見を参考にする
ということになるんでしょうけれども

なんかすごい手探り感が感じられるんですよね。

「Q」以降の世界について
監督陣に明確なヴィジョンがないっていうか。。。。

ストーリーにしろ、

キャラ設定にしろ

なんか違うな

っていうのをところどころに感じたんですけど。



最終的には


 「シン・」だからな(笑)

という感じで最後まで見ました。


さっき言った監督陣の舞台挨拶の動画で

庵野監督が
好きな感じのものを
それぞれの監督がそれぞれに入れてる

って言っていたので
そういうものなのかな

と。

「Q」の後の崩壊した世界で
電車(廃車)を生活スペースとして利用したりしているんですけど、
その風景とかも、全然荒れ果ててなくて
むしろレトロde小奇麗な感じで
違和感ありまくりなんですけど、

そういうのも
たぶん、好きだから入れてる
みたいな感じなのかな?
と。

たぶん、
今の日本のリアル世界が崩壊しかけているので
終末の世界みたいな映画
内容的にストップがかかったのかわからないですけど、
できるだけ、終末感・荒廃感を出さないようにしている
匂いを感じました。(笑)

もう、完結編・完結編っていろんなところで
言ってて
エヴァを終わらせよう、終わらせよう
という雰囲気が(笑)

だから、「シン・」は
こういう風になったのかな
と。


なので、今回の感想はあまり深く考えずに
さらっと行きたいと思います。

まずストーリーについて。

(思いっきりネタバレしますので嫌な方は回避してください。)


まずね

長い(笑)


私が見たのが本編上映が15:40くらいから始まって

終わったのが18:15過ぎだったと思うんです。

2時間半はまぁ長いけど
映画ではアリの時間ですが
(この間載せた「ドラゴン・タトゥーの女」も同じくらいの時間。)

体感時間というか

「シン・」は
すごく長く感じましたね。

そういうところもね
なんか手探り感を感じました。

入れるべきところと入れなくていいところの
区別がついていないというか。


冗長というか

たぶん、もっとすっきりコンパクトにできたんじゃないかと
思いますね。

まず、序盤の田植え&その後の綾波首切断までのシーン。

これ、いる?(笑)

みたいな。

たしかに、シンジをどうしたらいいか
という主人公の復帰と

綾波の首切断の二つのポイントは
ストーリー後半の流れのためには必要なんですけど、

田植え????????

なんかいきなりジブリの人達が加勢に来たのかと思いました。(笑)


(ちなみに上映前の映画の宣伝にジブリのこの夏上映と思われる作品をちらっと見ましたが、
相変わらず、半人前魔女と幼女と年寄りの呪縛から抜け出せていない模様。

あと、千と千尋からの「働かざる者食うべからず・若い奴は人生の知恵を老人に学べ」的思想ですね。

まさに現在の日本政府の推進する社会福祉概念と一致するファンタジーですな。

老人に学べと言っても
スーパー老人は次々に亡くなっているではないですか。)


まぁ、田植えはキーワード的には裏トレンドではありますけどね。

解釈的には、綾波の生きる場所はエヴァであって

田植えとか協力しながら日々の糧を手に生きる人間の世界では生きられない

みたいな感じのことを言いたいのかなというのはわかるんですけど、

これからの世界で田植えとかしないと生きていけないとか言われても
生きていけないのは綾波だけじゃないはず(笑)

という根本的な間違いについて
たぶんすごく多くの人がこの作品に関わっていると思うんだけど
誰一人気づいていないとしたら驚異的ですらある。

だから、まぁ逆説的に
綾波を現代の若者を象徴すると考えて

今更田植えとかして回帰的な生き方しろとか言われても
できない(死ぬしかない)

こんな世界にしたのは誰なんだよ的な悲哀を込めていると
考えられなくもないが。(結構無理がある。)

ていうか、あんな電車の廃車置き場の中心
(しかも車両を生活スペースとして利用している)の間に
田んぼとかできるわけがない。

畑ならともかくも
田んぼは無理じゃないですかね?

とか思って、その後
パンフレット見たら
なんだか美しい棚田の風景があって

あれ?こんなのあったっけ?(笑)
みたいな。

そんな美しい棚田があったら
世界とか崩壊してない。

と、
やはり「シン・」
にはいろんなおかしなところが。

たぶん、リアル世界の
BAIKOKUDOどもが
幸せの幻想を見せて
現実から目をそむけさせているに違いない(笑)

とりあえず、田んぼについては

バガボンド」の井上雄彦さんにも聞いてみてください。


何か手探りで一生懸命なにかやろうとしているけれども、
あちこちで矛盾が生じているので、

中途半端になるなら捨てた方がいいですね

と私は思いました。

何が言いたいのかわからん。

シンジも結局、放置プレイで

それはある意味リアルではあるけれども

最終的にミサトさんの子供と会って
加持さんの死に様を伝聞で知ったからって

・・・・そんなことで立ち直れるかなぁ?

パンフレットには、
みんなが見守り・・・とか
書いてあったけど

そうか?(笑)

だいたい、「Q」でガフの扉が開くのを
自らをロンギヌスの槍で貫くことで止めたのは
カヲルくんなのであって

加持さんが
そのあと一体何をしたというのだろう
という疑問が生じた。

なんか、そのあたりがすごい後付けっぽい感じがする。

シンジくんがショックで立ち直れないのを
冷めた目で見ながら

「生きるためには自分の足でたたなきゃいけないんだぜ」的な目で

しかも、「お前何にもできないから食料だけはやるよ

いじけてても食べるんだろう?」的なね。

たぶん、そういうことを遠回しに言いたいんだと思うんですね。

すごいにじみ出てるのはわかるんです。(笑)


そうじゃないと
この田植え関連のシーンはないのよね。

でもさ

知っててもそれができないわけよ。

シンジくんはさ。

周りの人達は
そういう思いやりはないんだろうな
と思いました。


私、エヴァの中で「破」が一番好きなんですよね。


 綾波を か え せ !!  

::::::::::::::::::::::::::::/!:::::/ |::::/   ゙l::::::::| ヽ:::::::::::::ト、::::|ヽ、::::::::::
:::::::::,イ::::::::/:/  |:::/   l::/     |::::ト:i ヽ:::::::::::| ヽ::! ヽ:::::::::
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イ:/::::|::::/ /   |/   |/        i::i     ヾ::::|   |!   ゙!:ト

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'"´`゙`¨゙‐‐--、、..__             ___,,..、--‐‐''"゙¨´ ̄`

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ハ:::::::::::..           ::::i                 :::/
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   ヽ::::::::::::::::..     :::::::::ヽ! r            ..:::/




ギラーン☆

のシーンをね
今回2回見直したけど

2回とも泣いたからね。

今も思い出すと泣けてくる。(笑)


 ミサトさん
 「行きなさい! シンジくん!

 誰かのためじゃなく 自分のために!!」

っていうね。


 この大空に翼を広げ

 飛んでゆきたいよーーーーーーー♪

みたいなね。



いや、失敬(笑)



シンジ君は逃げてばかりと人に言われて
それでも、逃げちゃだめだと自分に言い聞かせて

当たり前に誰かを助けるためにエヴァに乗って

死ぬかもしれないのにそれも厭わずに

自分が失いたくない存在のため自分の命を投げ出す覚悟で

使徒と戦ったわけです。



昔、「破」が公開されたときの反響を後追いで
ネットで見てたら

シンジ、やった!

でかした!

ってみんな言ってたからね。(笑)

それなのに

 「初号機をトリガーとするなど・・・」←冬月


っていう
ゲンドウ氏の罠にはまってしまって

まさかセカンドインパクトの続きが始まるとか

誰もわからなかったわけですよ?


シンジくんはみんなを助けて

綾波も助けるつもりで
全力でやっただけなのに

「Q」では

全責任をシンジ君のせいにしてさー。

シンジくん、かわいそす
としか。(笑)

Qのとき、
ミサトさん

「あなたは何もする必要ありません」的な目で
言ってたとき

うそーんと思いましたもん。

ミサトさんも、自分のためにやりなさい言うてたじゃないですか
と。


それで、カヲルくんと一念発起して
槍があったら、やり直せると頑張った結果

またもやゲンドウ氏の罠にはまり、


みんな最初からわかってると思うけど

全て悪いのはゲンドウくんです。(笑)


まぁ、カヲルくんが
「やめよう、シンジくん」
って言ったとき、

やめなかったのは
「おい、シンジ 聞けコラ」
と思いはしたんですけどね。(笑)


ちょっと、話はそれたんですけど、
とりあえず、みんなシンジくんを責めすぎじゃないかと。

みんなシンジくんと同じ立場に置かれたら
似たり寄ったりの結果にしか

ならないのさ。

ていうか、確かに綾波を死に物狂いで助けなかったら
セカンドインパクトの続きは始まらなかったかもしれないけど

使徒を殺して綾波を取り返さないと

使徒に殺されて
人類は全滅しててもおかしくなかったわけです。

どっちにしても
人類には選択肢はなかったのです。

今のリアル世界の状況と同じで(笑)



エヴァの世界というのは、運命を仕組まれた子供達に
世界を委ねるという

いわゆる後に「世界系」といわれる世界観なわけですけれども。

今回の「シン・」は
どちらかというと

運命の子供達ではなくて

主にそれ以外の一般人の目線で描かれてますね。

多数決大好き集団寄りというか。(笑)

だから、運命の子供達以外の子供たちが
大人になって、

急にトウジとか委員長とかが生きてて。

いや、別に生きてていいんですけど、


エヴァで子育てのこととかについて延々と説かれてもね。(笑)


なんかね、今回

委員長ってこんなに性格悪かったっけ?

と思いました。(笑)


まず、綾波が人格というものを自分自身で理解できていない状態で

「名前」というものも理解できずにいて、

その綾波に執拗に名前を問いただし、


「名前なくていいの? じゃぁ、そっくりさんって呼ぶわね。」

ニックネームでもなく

「そっくりさん」

と呼び続ける委員長。。。。

そして、綾波が「“おはよう”って何?」

と問いかけると

「一日が素敵にはじまりますように、っていうおまじない」
(よく覚えていないけどそんな感じ)
とメルヘンというよりメンヘラに近い定義を微笑みながら

当たり前に教え諭し、

「“おやすみ”って何?」と尋ねると

「今日も一日ありがとうっていうおまじない」
(よく覚えていないけどそんな感じ)

というのを延々と繰り返し、

だんだん「おまじない」っていうのが
「呪い」に聞こえてきて・・・

これいつ終わるの?
みたいな(笑)

完全にポリアンナ状態(←ハウス名作劇場参照)で

間違いなくジブリ勢による陰謀だと確信。

こんなことシラフで言えるのは
やつらに間違いない。(笑)

ていうかわざとだと思うの。

というわけで、このあたりで一回目脱落しかけて(笑)
時計を見たら開始30分くらいでしたね。

もう一度いいますけど、
これ、いる?(笑)



でね、そうやって
「普通」の感覚で生きる人達と対照的に

運命の子供達である
アスカやシンジは
もうね
やさぐれまくってるわけです。(笑)

アスカはね

「Q」の最後で
なんだかんだでシンジを迎えに来て

「もう、自分で立ちなさいー!」
とか言ってるうちはかわいかったんですけど、

「シン・」では
シンジに対して、殴る・蹴るの暴行を・・・(笑)

いや、笑い事じゃなくて
完全にドメスティック・バイオレンスになってるわけです。

アスカちん
それはやりすぎ。

ちょっと、いや、かなり引きました。

で、いじけてるシンジを放置して

アスカはゲーム三昧で。

「この場所はあなたにとって何なの?」
綾波に聞かれて

「自分達が守ってやってる場所」というようなことを
吐き捨てるように言う始末。(笑)

アスカちん
やさぐれ感満載でしたね。

まぁ、アスカちんが命をかけて守って
傷だらけになっても

自分達は自分達の力で生きてる!的に

あんな堂々と言ってる人達しか
周りにいなかったら

あんな風に心を閉ざすよね。(笑)

とか思って見てました。

お互い

ありがとう

って言えば
済む話なのにね。


そんで、綾波
過去がないから
興味津々でいろんなことを聞いてまわって。

この急に積極的に尋ねまわる幼児的キャラも
「Q」までの綾波とは明らかに違うし。

その設定だったら、
「Q」であんなにシンジに冷たくしなくてもよかったんじゃないですかね?

とか思いつつ。

たしかに、アスカちんから
自分でどう思うのか自分で考えなさい的なことを言われたのが
きっかけかもしれないけど

それでこんなに開眼するのか?

「Q」で「命令だったらやる」と言ってた綾波がですよ?

で、邪気なく興味津々で世界に入ってくる人って
受け入れる側の人によっては受け入れてくれるじゃないですか。
(受け入れてくれない人ももちろんいるけど。(笑))

綾波も田植えのおばちゃんたちから可愛がられて
プラグスーツのまま田植えして(笑)

やっと慣れてきたら
「やっぱりこの場所では生きられない」って
首を切断されるとか

あんまりじゃないですかね。


でも、なにはともあれ

なんかやっぱり田植えシーンが
「一日田植え体験」くさいっていうか(笑)

それと、今回一応完結編という形で
プロモーションは行われているようなので

エヴァパイロットのそれぞれの結末みたいなのが用意されていたんだけど、

これがまた
あまりよくないというか。(笑)

アスカちんも

シンジのこと好きだったんだけど

シンジが綾波のことを好きなのも知った上で
好きだったじゃないですか。

で、いくらシンジが頼りなくて
今、アスカにも心を開かないとはいえ

シンジの気持ちとは関係なく
シンジのことが好きだったわけで。

「破」で(腸を引きずり出される前)

綾波主催の食事会(たぶんクリームシチューパーティー)で

エヴァのテスト日が重なったため
アスカちんが自ら志願してテストに臨み

シンジとゲンドウと綾波が一緒に食事ができるようにした
じゃないですか。

で、「あの」綾波
「ありがとう」と言ってきて

そのあと、アスカちんがミサトさんに電話して
「悪くない気分」って言ってたじゃないですか。

(そのあと、アスカちんは腸を引きずり出されるわけだが・・・・

 いーつの日もー 絶えるーことなくー とーもだちでいようー♪)

それなのに

それなのに

それなのにーーーーーーーーーーーー!!


アスカがケンスケとカップル化するってーのは
どういう了見での
落としどころなんだい?

ええ?

返答によっちゃぁ許しませんえ?


あんまりじゃないですかね。

フィーリングカップルじゃねぇんだよ。

登場人物の数で
これとこれ

あっちとあっち

みたいに
くっつけてんじゃねーよ!

っていうね。

今、「ケンスケ」って名前忘れて
パンフレット見直したわ!!


なんかね、
今回のそれぞれの結末が
とても軽い

上に、安易すぎ。

安易すぐるよ。
(大事なことなので二回言いました。)

マリちゃんとシンジの組み合わせも
謎。

急に最後
「渚」理論が登場し

何故か海で手を取り合う、マリちゃんとシンジ・・・。

まぁ運命って
そういうもんですからね・・・・。

私の感覚でいうと

マリちゃんシンジくんより30年くらい長く生きてそう
なんですが(笑)

最後の冬月先生との会話で
年齢差考えるともう少し長いかもしれん。

冬月先生の教え子で
ゲンドウ君より絶対先輩でそ。

ということは・・・。

いや、でも
マリちゃんのことだから

年上も普通に「くん」付けで
呼ぶ可能性はあるな。

まぁいいけどね。

シンジくんは
お母さん(綾波)が理想なわけだし。

まぁ、いいよ。

マリちゃん好きだし
シンジくんも好きだし

いいカップルになると思うわ。

そういうのもアリだと思う。

「シン・」だし。←結局

他にもツッコミどころはいろいろあると思うが・・・・

マリちゃんは
名前がマリアだから
もう少し深い意味合いがあるかなと
思ってたけど、

もしかしたら
シンジくんと子供産むってことなのかな。

運命を仕組まれた子供同士の純血種は
遺伝子的にはどうなるんでしょう。。。

運命の子供が生む
運命の子供とかいかに。

意外と普通とか。

流れていた曲が
なんかマクロスで流れてたみたいな曲で

後で調べてみようと思ってるけど
(→調べたらユーミンの曲でした。)

後述の最後のシーンが
庵野監督と奥さんとの思い出になってるらしいので
庵野監督が舞台挨拶で言ってた)

その当時の雰囲気の曲ってことなのかもしれない
とひそかに思っている。


庵野監督が最後のシーンに一番お金かけているところがあると言っていたので

いつか映像が手に入ったら探してみよう。

実写×アニメの技術的なところ?


監督陣の舞台挨拶のほかに

たぶんNHKのプロジェクトXの動画と思われる一部を見たんだけど

今回絵コンテじゃなくてモーション・キャプチャーを使ってアニメを作ってたみたいだけど、

とってもやりづらそうだった。

鶴巻監督がえらい苦労してて
ちらっと作業画面見えたけど、
さすがにあれは(笑)

と思った。

やっぱり手書きの絵コンテのほうが
抽象化が優れていると感じた。

最近のアニメって動きが変なのが多くて(特に映画)

手で書かずに、モーション・キャプチャー使って
簡易にやってるんだろうなーとか
思ってたんだけど、

モーション・キャプチャーってあんな感じなんだね。

うわー(-_-;)と思った。

出来上がってしまえば、同じようにすれば誰でもその動きを応用できるかもしれないけど
最初にそれを作り上げるのは大変すぎるよね。

この春に、いろいろ本を読んでたときに
昔途中までで読みかけてた
(いや、一通りは一度読んだけど忘れていた)
宮崎駿監督と半藤さんの対談の本を
再度読んでいて。

宮崎駿監督が「風立ちぬ」のとき

スタッフの人に関東大震災の頃の街をこういう風に描いてほしいと言ったら

ネットの画像を出してきて
「当時の町はこうなっていません」と反論してきたので激怒した
という話を思い出しましたけど。(笑)

宮崎監督によると、
その時代にこういう建物が建っていたというのは事実だけど、
それを見た今の日本人がそれを昔の姿だと感じるか、と。

それは大事なところなんだ、
ということらしいです。

もちろん時代考証とかも必要ではあるけれども
とはおっしゃられていましたが。

なんか、そういうことを思い出しました。

前に記事で書いたかも。


リアルでない世界のリアル
ですね。

ワタクシ、最近、リア充という言葉の意味が通じてないことに
気づいて。

リア充って、リアルが充実している人のことなんですけど
ネット用語だったんで
今それを知った人にはわかりづらいのかもしれませんが。

最近の人達は
どうやら、リア充というのはお金持ちのこと
と思っているようなんですね。

リア充ってヲタの反意語として使われる場合もありますが、
別にヲタでもお金持ちの人もいるんですよね。

で、
ワタクシ考えたんですけど

リア充っていうのはもちろんリアルの世界が充実している人のことなんですけど
その基準でヲタというものを考えたときに

リアルでない世界にリアルを求める人かな
って思いました。

昔、アニメヲタがさんざん叩かれた時期がありました。

これを例のBAIKOKUDOによるスポイルの法則を当てはめてみると

ちょうど「風の谷のナウシカ」・「天空の城ラピュタ」が
大ヒットした頃ですかね。

アニメ映画が通常の映画と同じように肩を並べて
作品として人々に受け止められた時期です。

ここで起きる事件はズバリ・幼女誘拐殺人事件ですね。

その頃私も小学生でしたが
怖いとかいうより興味で新聞を見ていました。

後に捕まった犯人の名は、宮崎勤

宮崎駿監督と一字違いですよ。

今考えるとこれほど意図的なものはないと思いますが、

そして、その犯人は少女アニメが大好きだった
と報道されていました。

そこで、アニメに対する批判が高まります。

たぶん、今でもそういうこと言う人いるんじゃないですかね。

ちなみに宮崎駿監督を始め
アニメ映画に取り組んだ方々は
負けませんでした。

やはり、会社の経営の仕方とかは
いろいろ変わったようですが。


宮崎監督や高畑さんが
すごく強かったから
ここまでこれたのだろうな
って思います。

宮崎監督が引退してからのジブリ
目もあてられないけれどね・・・。

前に、ジブリの「風の谷のナウシカ」関連の本を読んでいて

初めて鈴木Pが高畑さん・宮崎監督にに最初に会いに行ったときの話が
すごく面白くて印象に残っています。

鈴木Pが、まず電話でアポをとろうとするも
その段階で断り続けられ、

それでもしつこくすると
電話口で宮崎監督を紹介され、

最初に電話口で聞いた言葉は
「僕は取材を受けます。その代わり、八ページじゃなく十六ページにしてください。
 この作品を語る上で、組合活動のことなどちゃんと話しておかなければ
 自分の言いたいことは伝わらない。」

と言われたそうです。

で、
一旦二人の取材は諦めて、

じゃりン子チエ」を制作していた頃の高畑監督を
大塚康生さんの紹介で取材できることになり、

高畑さんと喫茶店へ行った後
高畑さんが今こういうことで悩んでいると急に話をし始めて、
三時間くらい経った頃、最後に
「この話をまとめられるのならまとめてみてください」
と言われて鈴木Pは頭に来たそうです。(笑)

一方、宮崎監督には「ルパン三世 カリオストロの城」のときに初めて会いに行って、
最初に言われたのが、
「アニメーション・ブームだからといって商売をする『アニメージュ』には好意を持っていない。
そんな雑誌で話したら、自分が汚れる。あなたとはしゃべりたくない」

それで、鈴木Pはまた頭にきたけれど、
黙って横に座り続けて、
口を利いてくれたのが三日目だったそうです。(笑)

それから、毎日二人に会いに行くようになったとのことでした。


鈴木Pの感覚でいうと、当時自分の持つ“作家”のイメージを体現する人は
吉行淳之介さんくらいしかいなくて、

その“作家”のイメージを体現するストイックな作家性を持つ人が
まさに宮崎・高畑ご両人だったという。

それは、なんとなくわかりますね。

私もそう思います。
だから、現代小説の作家の作品とかあまり読まないというか。

エンタメとして読むくらいでも

それでもつまらない作品だったら
読んだあとに、ものすごく後悔しますからね。(笑)

だから、新聞とかの文章がうんこと感じるのも
理解してほしいのです。

そして、そう思っている人が
この世界にきっとまだたくさんいることも
理解してほしいのです。

そういう人は口に出さないんだと思いますよ。

口に出しても自分自身が汚れるだけだと感じると思うから。

うんこを扱うことの苦痛に比べれば、
黙っている方が楽ですからね。

そのうんこにつきまとわれた日には、
ほんと毎日死ぬ思いだと理解してほしい。

知らぬ間に、
そういう人達の底知れぬ恨みを買っている
ということを

理解してほしい。

話がだいぶそれました。(笑)

そう、幼女誘拐殺人事件は

アニメというもの自体を
迫害するような事件でした。

その時期に、ヲタクという言葉も生まれたわけですが、

ヲタクは、アニメの世界と現実世界を混同して
事件を起こすかのようなイメージが
広く捏造されたわけですね。

部分拡大解釈です。

アニメヲタクは
社会の日陰者として封印されました。

リア充という言葉が生まれたのは、
もっと時代があとで、

少なくとも、
ヲタクがリア充と肩を並べられるような位置に来た
ということでもあったのかもしれません。

しかし、それでもリア充はヲタよりも
常に優位の位置にありました。

今でも
ヲタクは、アニメの世界と現実世界を混同する傾向にあると
考えている人もいます。

でもですね

アニメとリアルの世界を混同するのは
むしろリア充の人だと私は思います。

アニメが好きな人たちは、
それがアニメであり架空の世界にしか存在しないことを
知っています。

アニメの世界に身を置きたいからこそ
現実世界に戻ってこれない人はいるかもしれません。

でも、アニメの世界から何かが抜け出して
現実世界に存在するとかいう思考はありません、

だって、全然違うじゃんか。(笑)

アニメの世界の何かを好きになっても
それと同じものは現実世界にはないですよ。

好きだからこそ、全然違うことがわかるんですよ。

だから、アニメを見て
それをきっかけに何かを現実世界でやろうとする人は
むしろリア充だと思います。

それをできる行動力・経済力・発想力・適応能力があるともいえるし、
だからこそ、現実世界につながる何かがないと
アニメに興味が持てないんだと思います。

だってアニメの世界は現実と違うから。

そういう意味では
リア充にとって、アニメは
そのリアル世界での思考の源と
言えるかもしれません。


前に、「ロック大陸」で「けいおん」のことを
マサムネたんが紹介していて

けいおん」をきっかけにギターを始める人とか
バンドを始める人が増えたとかも
すごいリア充的な発想だと思いました。

むしろ、ヲタクは
けいおん」は「けいおん」の世界で終わっていると思います。

そういう「けいおん」の世界を楽しんでいるのです。

だから、リア充
ガルパン」とか「艦これ」とかは
あまり興味がない。

ガルパン」を見て
ようし、戦車に乗るぞー!とか思わないし、

陸上自衛隊に入るぞー!とか
思わないし、

「艦これ」もそうです。

でも、ヲタは
ガルパン」が好きだから見るし、
「艦これ」も好きだったら見るし、

それだけで十分なのです。

その世界が自分の中で広げられることは大歓迎ですが、

それはあくまでもリアルの世界とは
別なのです。

そういう意味では、宮崎駿監督も高畑監督も
リア充だと私は思います。

アニメを仕事としてやっているし、

お客さんはたくさん入った方がいいし、

会社にもお金が入って
仕事を続けられるようにしなければならないから

そういうことも常に考えていると思います。

だから、ヲタは
ヲタの没頭する世界が

その世界の中において、
リアルで、揺るぎないことを求めるのではないかな
と。

中途半端だと
世界が壊れてしまうから。

だからね。

私はヲタの書くことは
間違いないと思いますよ。

wikiとかね

以前までは、
本当に詳細に、客観的に書かれていた。

それぞれのヲタが書いてたから。

世の中には
自分の時間を使って
ただそれだけのために
そういうことをやる人間がいるんです。

そういう人達が地道に入力したデータを

自分達の都合で
削除したりする人いるじゃないですか。

ほんと、そういう人達は
万死に値すると思うね。


と、
またまた
話がそれましたが

機会があれば書いておきたかったので
書きました。

さてさて
エヴァの話に戻りましょう。

あ、ちなみに
宮崎駿監督と半藤さんの対談の本で
「腰抜け愛国談義」
というものがありまして、

飛行機野郎の宮崎監督と
軍艦野郎の半藤監督のお話なんですが、

以前ブログの記事でも書いたことがありますが、

漱石の「草枕」の話から入って

いろいろな話が満載でとても楽しい一冊です。


宮崎さんや、半藤さんは
戦中のお生まれのため

やはり、軍用機や軍艦に詳しいし
純粋に飛行機や軍艦が好きなんだろうな
と思います。

たぶん、私達の世代あたりくらいまで
プラモとか流行していた世代なので
若干世界は通じるかもしれないと感じつつ。


エヴァも元々は軍艦ヲタの香りのするアニメだったと
思うんですけど・・・

綾波とか式波とかは戦艦の名前からとっていると
聞いたことがありますし、

たぶん、アスカとかユイとかは
日本の名前のなかでも、
日本らしい名前ですよね。
(日本の旧跡とか文化とかを想像させるような…)

葛城という名前も
軍人ぽい名前だし。

TV版のヤシマ作戦とかも
戦時中の日本軍の作戦を彷彿とさせます。

だから、以前は
エヴァには軍艦ヲタ・軍用機ヲタ好きの色も
あったのだと思います。

そういう色は劇場版の回を重ねるにつれ、
減っていっている感じがしますが、

そういうヲタ色がほとんど見られないのが
今回の「シン・」だと思います。

敢えて言えば
「田植えおばちゃん色」というか。

「(ジブリの)ハウス名作劇場好きおばちゃん色」とか。

「女性議員が推進する女性の子育て・社会進出改革色」とか。

なんか、前半はそんな感じ。

で、ほんとに脱落しかけて
今回はハズレだ。帰ろうかなーとか思っていたら、

ようやく戦闘が始まったので
しばらく見てて。

でも、今回あんまり機体の記憶がないんだよなぁ

ウンダーも「Q」のときから
あまり変わってない印象だし、

マリちゃんの乗ってたエヴァ
両腕無いから
違うバージョンになってたのは記憶にあるけど、

今、パンフレット見たら
結構元バージョンにいろいろ付属させてる感じですね。

2号機もそんな感じ。

ウンダーとかの戦艦の戦いは

どうしても動きが縦横垂直になってしまうし、

エヴァ自身の動きもあまり
「これは!」と思うのもなかったので、

映画見てるときも
だんだん飽きてきて、
集中力が第2脱落期に差し掛かったため、←

時計をみたら、ちょうど2時間くらい経っていたので
「え?このまま終わるの?」

と若干不安になりながら

ミサトさんが総攻撃の仕上げにかかろうとしたときに

リツコさんが
「このまま終わるはずはない」と言い出して

ですよね(笑)

と。

このまま終わったらゲンドウくん
ほんとに無為無策
ですよ
と思っていると

やっとゲンドウくんたちの反撃がはじまったというわけです。


その後、マリちゃんと冬月先生が結託して
ゲンドウくんに引導を渡す時がやってきたわけだが、

これからどうするのだろう
と思っていたら、

ミサトさん・リツコさん・シンジくん・ゲンドウ氏で

まさかの戦艦の外での会話シーンに突入。(笑)

でも、実は、今回の「シン・」で
唯一泣いたシーンが
ミサトさんでしたね。

私、ミサトさん大好きでして。

アニメ版のミサトさん・リツコさんって

イケてるおねいさんキャラだったじゃないですか。

結構、弱い人間的な部分もあるけど
すごいいいお姉さんだなと
思っていて。


ミサトさんを見てると
小学生の頃
お姉さんが欲しかったよな
というのを思い出しました。

三石さんの声が好きなのかもしれないけど、
ほんとに
あの声にこのミサトさんがいて、

ミサトさん!って感じなんですよね。

意味わからないかもしれないけど
そんな感じなんです。(笑)


だから、「Q」でミサトさん
全然違う感じになってて

悲しかったんですね。


「シン・」で
昔のミサトさんが帰ってきたな
と思って。

なんかすごい嬉しくて
涙が出ました。

いろいろ変わって
加持さんとの子供まで生んだり

それでも艦長としてずっとやってきて

やっぱりミサトさん
ミサトさんだったなぁと思って
私は泣きました。(笑)

パンフレットで
ミサトさんは女として生きて、
リツコさんは女を捨てた
と書いてあったけど、

私は逆だと思いますね。


見た目的には
リツコさんは髪も切って
いろんなものを捨てたように見えるけど

全然捨ててないと思う。(笑)

大体、気持ちを切り替えるために
髪を切るとかいうのが
女ですよね。


「りぼん」の「星の瞳のシルエット」の香澄ちゃんと
同じですよ。

(小学3年生の頃 香澄ちゃんが気持ちを切り替えるために
 髪の毛を切ったシーンで、
 そういうこともできるんだと知った私。

 意外と衝撃的だった。

 ちなみに、そのときの巻頭カラーの鏡に向かう香澄ちゃんのセリフは

 「おはよう、新しいわたし」です。(笑))

案の定、リツコさんは
ゲンドウくんへの未練が断ち切れていなかった。


でも、ミサトさん
子供を守るという母親としての使命よりも
戦艦とともに死ぬという選択を選んだわけです。

私ね、

男の人の特権というのは
仕事の責任を負えるということだと思うんです。

これは差別ではなく
肉体的な特徴と
人間の本能としてそうだから。

女は仕事に責任を持てないときがあるんですよ。

そして、女の人は子供を産むから。


明らかに、生理中の男と女では
精神の集中の仕方も違うし、

仕事というものを同じレベルですると負ける。

出産休暇で休む人が
出産明けに戻ってくるのは権利としてあるかもしれないけど、

女の人が出産でいない場合を想定すると

命令する側も、
そういうリスクのない方を選ぶのは
当然ですよ。

女の私でも、自分が指揮官ならそうする。

だから、男に負けないためには

どちらかを選ぶ必要がある。

勝ち負けの問題ではないけれども、

責任をとるということは
仕事を必ず最後まで
自分の責任でやりきるということです。

エヴァで、人類の未来がかかっていて

自分の命を賭しても
自分の艦長としての責任を果たすということは

男だと思うし、
女を超えていると思う。

そして、命を賭して戦える人が

最終的には世界を変えることができる
ということなんだと思いました。

これは、別に命を投げ出すことをよしとするわけでは
ないけれども、

そういう心持を持った人でないと
そういう仕事ができないのだと思うからです。

私が涙したのは
ミサトさん

シンジくんを想う気持ちであって、

懐かしいミサトさんの姿でした。

その姿は、命を投げ出して戦う姿より

私の心を打ったのでした。


泣いたのはその箇所だけかな。

今回の「シン・」は女要素多めで

冒頭のパリのシーンでも
マヤが「これだから最近の男は」(否定的)

最終的には肯定的
みたいになってて、

どうにかこうにかジェンダー論へと
持っていこうとするおばちゃんたちの意気込みが
感じられて多少(いや、結構)ウザい感じでした。

ほら、映画の公開直前流行ってたじゃん
森元首相の女性蔑視発言問題(笑)

今もう既に記憶もおぼろげになってきてますけど、

森元首相がなんて言ったんですっけ?

「女性が多いと話が長くなる」でしたっけ?(笑)

ほんと、どうでもいいわw

てかさ、実際そういうことを理由に解雇されたとかなら
問題だけど、
そういうわけでもないんでしょ?

ほんと、どうでもいいわw (二回目)

あとね
ミンキーモモ風味のミドリちゃんも

「Q」の頃からも思っていたけど
どういうことがしたい役割だったのだろう。

ミンキーモモを貶めたいの?(笑)

復讐しようとする人物も
多分いるだろうという設定だったら

別にあってもいいけど

別になくてもいい。(笑)

ミドリちゃんのシーンに
特別な何かは
全く感じなかったっす。

復讐しようとするには、
本気不足な感じだし。

何がしたいのかわからん。

むしろ、その他のウンダーの乗組員(スミレさんとか)
の一人一人の存在感のほうがあった。

陰でしっかり支えている感じがして、

パンフレットを読んでも
すごい細かい設定があったんだなぁとか思って

声優さんたちも
演じる上での
プロとしての淡々とした意志を感じたし。

気になったのが、

マコトさん(?)ですね。

テレビ版から「シン・」まで登場してて

テレビ版では、ミサトさん
「あなたのためなら」って言ってたのに

やっぱりミサトさんは加持さんと・・・・
と思って。

実は傷心?


あー
あとサクラちゃんがね(笑)

おもしろかったですよね。

「Q」では
シンジに
エヴァだけには乗らんといてくださいね!」
(↑京都出身だから京都弁?)
って一番強い口調で言ってて

そんなん言うたら
シンジくんかわいそやろ?
と思ってたんですが、

「シン・」では

トウジが生きてることを知ったからかどうなのかわかりませんが、

「シンジさんは、みんなを助けるために命をかけてエヴァに乗ってはるんですから!」

みたいに急に言い出したので

どういう心変わり?(笑)

と思いました。

でも、最終的に
サクラちゃんがとった行動はというと
・・・・・なんか支離滅裂(笑)


それからねー

キャラ設定とかではなくて

全然関係ない個人的な想いの変遷なんですけれども、

加持さんはね
最初見たころは

どこが素敵か全然わからないわ
と思ってて。(笑)


エヴァのTV版を見た時も
そう思ってたんだけど

今回テレビシリーズを見直して、
「序」・「破」・「Q」の三作品を改めて見てたら

なんか加持さんが素敵に見えてきたんですよね。←



なんかね

言葉の選び方とかもよいですよね。

ひねくれているわけでもなく、

どんな相手でもやわらかな感じで

でも恩着せがましくなく、

嫌味もなく。

時にクールで。

おとなしいわけでもなく。

素敵な大人だわ
と。

なかなかいないわ
と。


やっと、加持さんの魅力に気づいた今日この頃です。

でも、「シン・」ではほとんど登場なし(笑)

ちなみに加持さんの素敵な言葉選びで

好きなのは、

やっぱり「破」で

シンジ達が海洋生態研究所みたいなところに招待されたとき

シンジとミサトさんのこととか話すところだけど、

お昼の時間にシンジがみんなのお弁当(お味噌汁付)を作って持ってきたときに、

「シンジくん、料理のできる男はモテるぞ」
と。

なんかね、言い方がよかったのです(笑)

にしても、シンジくん
マメよね。

朝ごはんも作るし、
お弁当も作るし

すごいよい子。

あとは、

カヲルくんの説明が最後にちょろっとあったけど

ちょっと意味不明でした(笑)

どゆこと?

とか思ったけど。

でも、カヲルくんを通して「序」・「破」・「Q」と
今回「シン・」を見ると

やっぱり「序」・「破」・「Q」はひとつのまとまりで
つながりがあるけど、

やっぱり「シン・」は別物って感じがしますね。

「Q」でカヲルくんが
「第1使徒の僕が、第13使徒に落とされた」と言ってたので、

これもまた堕天使なんだと思うんですけど、

1から12までがやっぱり一区切りなんだと思うんですね。

時間もそうだし。

で、13というのは存在しない数字だから、
本来は存在しないものと交換されたという意味だと思うのです。

だから、カヲル君が第13使徒になり、
と、同時に第1使徒もいなくなるわけなので

すべての使徒が消滅し、ゼーレの宿願が成就し、

ガフの扉が開く条件がそろったわけです。

で、そのガフの扉をとりあえず止めたところで
「Q」は終わっていて、

本当は、今ある世界が崩壊し、
再び新しい世界が構築され、

という流れが繰り返されるので

やっぱり、「Q」で一端終わり

というか、
また「序」へ戻っていくのかなと思いました。

「Q」の最後に
You can (can not) redo.
とあったので、

あなたはこの繰り返しを

続けることもできるし、やめることもできる

ということだと思いました。

ただ、今回はガフの扉は完全には開かなかったので、
人類に関してはまだ生き残っていて
「Q」の時点では、ゲンドウくんの目論見
人類補完計画)もまだ残っていることもあり、

人類の歴史とエヴァがどうなるかについて
人類側からのある視点で見た時の結末が
今回の「シン・」なのではないかと。


なので、最後のカヲルくんの説明も

おそらくカヲルくん自身が
13番目のいつでも誰とでも代替可能な存在になって

世界をつなぐミッシング・リンクになっているということなのかなと
思いました。

よって、今回カヲルくんはほとんど出てきていない「シン・」は

人間とエヴァの結末について
但し、ある時点で見た時の世界の結末のひとつ
に過ぎないのではないかと。

だから、また「序」の世界に戻っていくかもしれないし、

だから、繰り返しの記号がついているということだと
理解しました。

マジレスすると
そうなのかなと思ってます。


ゲンドウくんが
ユイさんに会いたくて(生かしたくて)
その計画をやってるということは

うすうす気づいていた。

てか、気づくっしょ?(笑)

だから、シンジくんをトリガーにできる自信が
あったわけだね
ゲンドウくんは。

シンジだって会いたいに決まってる!
だから、綾波で行ける!みたいな。(笑)

そして、思惑通りにシンジくんは罠にはまり・・・(笑)

でもね、
結局お父さんを否定するといことは
お父さんから逃げるということになるわけだし。

(みんな「序」・「破」・「Q」のときは逃げるな、逃げるなと
言ってたのにね。)

シンジくんは
お父さんの想いを叶えてあげる協力をしてあげただけでなく

自分のしたことは自分で責任を持って(持たされて)
お父さんに引導まで渡してあげて

よくできた息子さんですよ、ほんとに。。。(笑)

とは言え、最終シーンでは
シンジに後光がさすレベルの
慈愛っぷりでやりすぎ。

菩薩か。

序盤のいじけっぷりからの
見事な巻き返しですね。


最後はゲンドウくんの告白にて
まとめ的な感じも
面白味に欠けますた。

なんか
誰か一人のせいにして
何かを終わらせようとするのは
日本人の悪い癖だと思うんですよね。

今回、女要素・集団の強い印象だったので
男一人のせいにするっていうのが

やっぱりなんか、女的発想だな
というか。
(おばちゃん集団的発想ですよね。)

あんたのせいでしょうが
なんとかしなさいよー

みたいな。

結局、女の人達は
責任とかとらないんですよ。(笑)

ラスト付近の
デッサン風のシーンも
庵野版「カレカノ」で既に体験済だったし、

ゲンドウくんのピアノに対する想いの告白シーンは

あれは一体何だったのだろうか(笑)

ピアノを正確に弾きこなすことが好き。

うん、まぁそういう人もいるかもね。

正確に弾きこなさないと
我慢ならない。

うーん、まぁそういう人もいるかもね。

だから全てが自分の思い通りにならないと
気が済まない。


え!! それ、ピアノと関係ある???

みたいなね(笑)

まさか、ゲンドウくんの計画は
ピアノのせいとでも言うのだろうか(笑)

話飛躍しすぎじゃね?

ピアノの風評被害も甚だしい。

完全に巻き込まれ事故ですね!

多分、私が想像するに
ゲンドウくんは、本当はピアノが好きじゃない(笑)

きっとそうに違いない。


ていうか、「Q」でピアノのシーンあれだけやっといて
何故急に?

誰かからなんか物言いでもあったんですかね?

反ピアノ連盟から
とか?(笑)

受け入れるなよ
と(笑)

ま、恐らく売国奴
ピアノが弾けないやつによる嫉妬かと。。。。(笑)

そんなこんなで
エヴァはやっと終了し、

映画終わって一言思ったのが

長いな!
と。(笑)


なので、感想も長くなりました。(笑)



碇親子は
その他の人類にとっては
迷惑な家族だったのかもしれないけど

どっちにしろ
使徒にはエヴァでなくては対抗できなかったし、

ゼーレによる人類補完計画は世界の裏側で
着々と進行していたのだ。

それに関係できない人達は
それに振り回されるしかできない。

それは、その現実に関わろうとしなかった人達の責任でもある。

のんきな平和な世界の
もう一つの裏側の世界を知ることをしなかった責任でもある。

今回の「シン・」の結末は、
人類の存亡をかけて

エヴァを排除した、という結末になっている。

最後のほうで、首を持たない
不完全なエヴァたちが
密集していたのだが

それが、そのまま剝がれるように
落ちていった。

人間に似ているようで
人間とは異なる生き物たちに

シンジは言う。

「さようなら、ヱヴァンゲリヲン

と。


本当にそうだろうか。

例えば、

シンジくんにとって
人間でない存在は

いなくてもよい存在だったのか?

綾波レイ
いなくてもよい存在だったのだろうか。


命がけで救おうとしたのは、

綾波が人間だと思ったから?

人間じゃないと
最初からわかっていたら救わなかったのか?


何故、綾波のことが好きになったのだろう?

綾波が人間だと思ったから?

人間じゃないと
最初からわかっていたら好きにならなかったのか?



違うと思う。


綾波綾波であったから

綾波のことが好きだったのだと

私は思う。


アスカが普通の人間とは違う
運命を仕組まれた子供だという理由で

アスカのことを嫌いになるだろうか?


違うと思う。



私は、アスカがアニメの中の登場人物だと知っていても

アスカに生きていてほしいと思う。


アニメーションという世界の中で

形を与えられ、

動きをつけられ、

色を付けられ、

声を与えられて、

登場人物達は

生き生きと動き出す。


まるで、本当の人間のように

生まれた時から
それを見た時から、

声を聞いた時から

ずっと

誰かの心の中で生き続けるだろう。




シンジくんだって

アスカだって

綾波だって

ミサトさんだって

みんなそうだ。


アニメの中だって

アニメの中だからこそ

いろんな生き物が生まれ、生きていくのである。


わざわざ殺す必要なんて

何もない

と私は思う。


生まれてくるエヴァにも
命を与えたらいいと思う。

顔がみんな同じでも
それぞれは違うかもしれない。

綾波レイみたいに


少しずつ

人間というものを理解して

いつか、一緒に
綾波が作ったクリームシチューを食べよう。


そういう風にして
他の生き物と生きられないのならば、

他の生き物を排除してしか生きられないのならば、

きっと人類は滅びるだろう。



そういうときに

きっと言う。




さようなら、すべての人類。


さようなら。





物語は
繰り返す。


明日がどんな風になるかは

自分次第だ。


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