SKYFALL 2/4

(SKYFALL 1/4からの続きです。)

ちなみに、アインシュタイン
「神様は賽を振らない」という言葉は
前述の本によると
まるで確率論のような量子論に対する異議であり
相対性理論の「相対的」という言葉が確率論的に捉えられることに対する異議でもある
とのことですが、
まぁ、どこまでが正しいのか
その辺りはわかりませんけど(笑)

上記の意味合いだと、
アインシュタインの言葉は
少なくとも、世界には神様が定めたような厳然たるルール(法則)が存在する
という意味にもとれますし、

それこそが普遍的な法則を追求するという
まさに物理学の極みとも思われるわけですが、
そこに神様の存在みたいなのを結びつけて言ったかどうか、
実際のところはわかりませんけど(笑)

まぁ、最近でも
いろんな意味でアインシュタインの言葉を使ったりしてる人達が結構いるけど、
たぶん本当に理解しないで
使っている人達がほとんどなんじゃないかな
と思います。


アインシュタインと言えば
例のあっかんべーの写真が有名ですけど、
あれって
どういう意味のあっかんべーなのかな?
といつも思います。

おどけてあっかんべーってやったっていうくらいの
気さくな、陽気な人
(ちょっと変わってる人)だったということなのか、

メディアが嫌いで
あっかんべーってやるくらいの反抗心を持ってる人だったのか、
とか。

ストーンズのマークのあっかんべーは
権威に対する反抗みたいな
ロックな感じだと
ずっと思ってたんですけど、
本当のところ、どうなんでしょうね。
たぶん、昔のネットだったら
そういうこともすぐに調べられたのに
今はできないからなぁ。

今はネット情報も
素人だらけで
嘘ばっかりなので
あてになりません。

話は戻りまして、

要するに
科学というのは
基本的には世界の解明が目的であって、
研究者は世界の真実とひたすら向き合う必要があるわけです。

そうでなければ、
世界の解明なんてできないから
当たり前なんですけど、

いつの頃からか、
相対性理論の誤った解釈(?)と同様に
事実を自分たち独自の座標軸で「相対的に正しい」と言って
神様気取りになっている人達が増えたんだと思いますね。

でも、そういう人達って
結局地球上のどこかに住む
同じ人間なわけで、

違う座標軸上の異次元に住む神様ではないんですよ。

ネット世界を牛耳ったり、
メディアを征服して、

ここに地獄があり
ここに天国があると
言って
民衆を誘導して、

でも、そこは
地獄でも
天国でもない
ただの人間世界なんです。

人間世界のルールは
人間が創り上げた
人間だけに適用できるルールであって、

その他の自然界や
存在する地球上の全ての生き物のルールとは
異なっていることもあって
綻びが生じてくるんです。

人間は
この地球上で
連繋しあって生きている生き物に過ぎないので。

ダンテの地獄篇と天上界への昇天は
そんな人間世界の縮図です。

おもしろいのは
ダンテの描く楽園は
空の彼方にないんです。

地上のどこか、
すなわち地球上のどこかにある
島のてっぺんみたいなところにあるんです。

だからいつでも地獄に繋がっています(笑)

まぁ、それからさらに
天空の地球よりもさらにはるかな
宇宙の外側みたいなところにあるらしい、
エムピレオなる天上界は
神様だけがいる場所になりますが、
存在しないんです。

岩波文庫版では、
「處なし」と訳されていますが。

存在しないのに
「ある」って言うのも
難しい話ですが(笑)

ダンテの言わんとするところは
なんとなく理解できます。

空即是色、色即是空

光しか存在しないという感じが似ていますね。

その光というのも
結局は、私達地球に住む人間が、
恒星からの光を
太陽の光の反射として受け取っているにすぎないのと同じで、
つまりは太陽を中心とする
太陽系の惑星の軌道内の法則
からは逃れられない
ということを意味しています。

ちなみに、
ダンテの時代には
太陽系の惑星は
土星までしか見つかっておらず、

その外側は
恒星天と言って、
たくさんの星が描かれている図がありますが、

恐らく土星の外側は
小惑星がたくさんあって、
天王星海王星と続くはずです。
(ダンテの時代は海王星より内側に冥王星の軌道があった可能性もある。)

ダンテの解釈では
上述の恒星天(小惑星群)の外側に
プリーモ・モービレとも言われる原動天というものが
設定されており、
恒星天の周りを空気のように包んで
その内側の全ての天体を動かしている
と定義しています。

天王星は占星学の上では、
原子の意味も持つと書きましたが、
原子すなわちatom→atmosphereという意味でも
原動天と天王星は定義が似ています。

昨年のEasterの頃のブログの記事に、

一昨年までは
天王星が強い感じがしていたけど、
今年あたりから海王星の動きが気になるところ
と書いていましたが、

そのときの記事に
天王星ウラヌスを物質的に考えるとウラニウムであり、

天王星が発見された時期と、
原子核の実験が本格的になった時期と対応するということも
述べました。

冥王星
別世界であって、
位置的には
どの場所でも自由という感じがする
と、
そのときも書きましたが、

冥王星
極限、最果て
つまりリミッターの役割を果たし、

他の星にキックすると
そのリミッターが解放されると同時に
莫大なエネルギーが放出されて
ゼロになる
(リセットされる)
のではないかと
最近、思えてきました。

つまり、
天王星ウラニウム
冥王星プルトニウム
キックして
極限でリミッターが解除された
エネルギーの暴発が
原子爆弾だったのではないかと。

ニュートン万有引力の法則を得て、

人々は天上の夢を捨てました。

その後、
アインシュタイン相対性理論という
「科学」の翼を得て
宇宙へと羽ばたいたものの、

結果、空から降ってきたものは
ソドムの町を焼き尽くした
天上からの火、
すなわち
浄化の火だったのです。

この時期を、相対性理論の暴走の時期と考えると、

海王星の発見は、
量子論の展開と考えられるのかな
と思います。

原子がindividualな(それ以上分割できない)
明確な個別的単位であるのに対して、

曖昧模糊かつ偶発的にも似た
量子の世界と、

海王星が表すものが
似ている気もします。

つまりは、

ニュートン万有引力の法則
土星(キリスト教における悪魔的解釈)

アインシュタイン相対性理論
天王星

量子論
海王星

と、

物理学上のエポックメイキングを
占星学に当てはめても
結構すんなりと解釈できるわけです。

そんな海王星
ここ数年で
魚座から牡羊座に移動するわけなので、

何らかの終局と
新展開が起こるということが
一体何を意味するのか
気になるところです。

以前のブログで書いた通り、
海王星が「境界」を表し、
とくに現実世界と架空世界との境界を意味する点で、


前回のブログでも書きましたが
(↑前回は仮想現実への耽溺による現実逃避的傾向が福岡の某ホテルの事業展開にまで及んでいる例(笑)と
コロナ禍の情報戦争と情報統制の在り方がアヘン戦争に似ているという考察
について述べました。)

近年起きているさまざまな事象を照らしあわせると
なんとなくわかるような気がします。

そこに冥王星含め
他の天体がどのように絡んできて
何が起きるのか、
ひとまずは行末を案じながら
見守りたいと思います。(笑)

ニュートン
万有引力の法則は
地獄を普遍化し、

アインシュタイン
相対性理論
天上の浄化を普遍化した。

ダンテの描くこの世界は
既に1300年には出来上がっていて(出版年は1400年ですが、示現が1300年なので
そういうことにしておきます。)、

万有引力の法則も
相対性理論
その延長に過ぎないというか、

それを近代的なモノの見方で
いかに普遍性を持ったものにするか、
ということに過ぎないのではないかとさえ
思うんですよね。

科学というのは
そういうものだと思います。

だから、
万有引力の法則も
相対性理論
間違ってはいない。

ただ、
それらの「自然科学」の法則を
「間違った方法」で使用すると
人間世界とそれ以外の「世界」との間で
綻びが生じることがある
ということを
失念しがちであるのが
人間であり、

人間とはそのような
不完全な存在であるということを

ダンテの説くところの
「世界」は示していると思います。


人間は科学というものを通して、
「世界」を知ろうとしましたが、

別にそのことが
間違っているわけでは
ない。

世界の仕組みを
全て解明するに至っていないだけです。

だから、研究者というのは
前の人達が積み上げた石に
またひとつ石を乗せるに過ぎない
という、

いつか森村誠一さんが言っていた
「作家とは」
という言葉の定義と同じだなぁ
といつも思っています。

だから
前の人達がどんな風に石を積んできたのかもわからないのに、
上手に石を乗せられない人達が多いのは
当たり前の話です。

そりゃ、崩れるよねっていう。

地獄篇は
さまざまな人達に影響を与えますが、
とどのつまり
みんな、同じところに辿り着くってことなんじゃないかな
と。

鏡の国のアリス」の
ルイス・キャロルも数学者でしたが、

アリスも
深い、ふかーい穴に落ちるじゃないですか。

で、
最後に現実世界に帰ってくる。

アリスも
ダンテも同じなんですよね。


というわけで、
そんなこんなを考えているうちに
アルバイトの仕事もしながら日々を過ごしつつ、

京都旅行の日が来たわけで。

旅行の行程を考えているときから、
漠然と「源氏」だな
って考えていて。

前から、宇治に行ってみたいとは思っていたんですが、

「源氏」で宇治と言えば、
宇治十帖ですけど、

宇治十帖とか別にあまり好きじゃないし。

高校生のときに
その場にいた三人とも
「源氏」の中で浮舟が一番キライだと一致して盛り上がったこともあるくらいだし(笑)

どうしたもんかなぁ
と思っていたんですが、

でも、宇治に行ってみたい気持ちは
以前からあって、

今回は母親も一緒だし、
まぁ、宇治で抹茶パフェも食べたいし、
とりあえず行ってみるかくらいの気持ちで
最初は考えていたんです。

宇治は昔(平安時代くらい)から
貴族達が世俗を離れて
静かに暮らす
いわばセレブの隠れ里みたいな雰囲気があり、

最近の私の傾向としても
現世離脱的な趣向があるので(笑)
まぁ、宇治に惹かれるのは
なんとなく
そういう心のうちから沸き上がるそこはかとない願望のような
気もしないではありません。

でも、そう言えば
宇治には平等院があるな
と。

現存するのは、阿弥陀堂だけですけど
この世の極楽であると言われたくらいの鳳凰堂ですからね。

そこまで考えたときに、
ちょうどダンテの地獄篇を読み終えていた私は
ピーンと来たわけです。

これはワタクシ的
地獄篇につづく
天上篇なのではないかと。

それでね、
この世の極楽とは
どんなものなのかと
それを日本人の私が
日本的な天上界を巡ってみるのも
よろしいのではないかと
思ったわけです。

もちろん、残されているのは
阿弥陀堂という仏教的極楽浄土のかほりがする建築物だけなので、
どんな感じになるかは
未知数。

平等院は、道長の子、
頼通が仏教建築に立て替える前は
道長の別荘だったわけで、

そこまで来ると
思い出してきたのです。

源氏の君が
女性達を住まわせたお屋敷のイメージを。

道長は「源氏」のモデル候補の一人であるわけなので、
もしかしたら、
そんなかほりの残存が
あるかもしれない
と。

「源氏」では
源氏の君のお屋敷は、
はじめ二条あたりにあって
若い頃(最初は帝の子なので内裏にいますが、
臣籍を賜った元服後は母方の屋敷に戻る)はそこで過ごしますが、

そのあと、
なんやかやあって(←(笑))
大人の世界も板についてきた
源氏の君は、
六条御息所のお屋敷を改築して
まさに彼自身の理想的な
光の君オブザワールドな
お屋敷を建てるわけなんですけど、

なんとなく
なんですが

そのお屋敷のモデルとなる建物が存在するとすれば
それは、宇治にあった
道長の別荘なんじゃないかな
っていう気がしてきたんです。

兼好先生が
「空の名残」の話をしている箇所は
道長の話もしていて、
兼好先生も何かしら感じたような気配があり、

だから、私も行ってみたら
何か感じるかもしれない
と思い、

そう思ったら
俄然やる気が出てきまして(笑)

絶対宇治には行くぞ
という気持ちになったわけです。

そんなわけで行った京都旅行は
道中てんやわんやで
先に述べた通り、
具体的な現世旅日記は
次回の記事で書きます(たぶん(笑))が、

今回の記事では
天上篇としての宇治の
ワタクシ的「源氏物語
空旅日記の部分だけ書きたいと思います。

旅から帰ってきてからも
少し調べたりして、
個人的にはすごく楽しかった
のですが、
この楽しさがうまく伝わるかどうかは
疑問ですけど
とりあえず頑張って書いてみる(笑)

というわけで、
まだまだ続きます(笑)。

さてさて、
先程、
源氏の君のモデルの一人として、
道長の名前を挙げましたが、

他にもモデル候補がいて
その人は源融と言います。

で、実は
元を辿れば平等院源融の持ち物だったのを
道長が別荘にしたらしいのですね。

源融という人は、
道長より少し前の世代の人で、
在原業平に近い時代の人です。

最近、「伊勢」の
''古の真剣に恋愛をする神様レヴェルな人達''
についての記事を書きましたが、
その世代ですね。

源融も、
帝の子でありながら
臣籍に下り(しかも源氏姓)、

私の家に大岡信さん(評論家)の古今集の注釈があるんですけど、
大岡さんによると
源融ドン・ファン的な人物だったとの記載もありますが、

政治的な世界よりも
風雅に生きる類いの人であったようです。

そんなわけで、
生い立ちから
その後の人生、
趣向や立ち居振舞いまで
源氏の君と共通点が多く、
源氏の君とモデルの有力候補の一人として
考えられているわけです。

他にもいろいろな点で
源氏の君と源融との共通点は散見されますが、

今回私が注目したキーワードは、
「流浪」または「漂泊」ですね。
まぁ、今回の京都旅行が
源氏物語」の時空の旅なので(笑)

源融と言えば、
古今集
次のような歌があります。

みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに
みたれむと思ふ我ならなくに

河原左大臣として載せてあります。

「みちのく」、すなわち東国(現在の関東・東北地方)
という言葉が使われていて、
「しのぶもぢずり」という言葉に掛かって、
この歌の重要なキーワードになっています。

平安時代の頃、
貴族は田舎のほうの人達のやることを
興味深く詠んだ歌というのが結構ある
と言われていて、

歌の世界では
よく歌に詠み込まれる地名を歌枕と言いますが、

「みちのく」もまた
古くから
歌ごごろをそそる地名として
たくさんの歌に詠み込まれています。

たしかに景色の美しい場所、
というのは歌枕のポイントなんですけど、

それだけではないんです。

この、しのぶもぢずりの歌もそうで、
歌も恋歌にカテゴライズされているとおり、
男女の恋のやりとりの歌です。

この歌は、
女性から浮気心を軽くなじられたあとに答える男の歌で、

大意としては、
''女性のみだれ髪のように乱れている私の心は
あなた以外の誰に心を乱すでしょうか
(私はあなた以外に心を乱したりはしないのです。)''
というような感じ。

大岡信さんは、この箇所について、
次のように書いています。


''「みちのくのしのぶもぢずり」は、歌の内容とは無関係であるが、
「みだれ」を引き出してくる序詞であるとともに、
この歌の調べの中心となっている。
「しのぶもぢずり」の考証はまだ一定の説がないが、
通説では、福島県信夫郡で産する
摺り染めの布地を捩摺(もぢずり)といい、
その模様が乱れた髪のように捩れたものだったというところから、
「みだれ」に掛かる。
この序詞は、当時でも新鮮な印象を与えたので愛誦された。''

出た(笑)

''歌の内容とは無関係である''

みなさんも思い出して欲しいんですけど
(もはや記憶の彼方というより記憶そのものにないかもしれませんが(笑))

学校の古典の授業でも
聞かされませんでしたか?

序詞は歌の意味とは無関係
とか
句の調子を整えるだけとか。

それで、現在○○地方に
△△という地名が残っていて、そこに残存するほにゃららに由来する
とかなんとか。

だから何?
っていう(笑)

無関係の言葉を
前半の大部分に持ってきて
意味はない
とか
そんなのあるか!
と。

それで、
しまいには
古今集」は
技巧的で修辞的であるとか
なんとか
言い出す始末。

そんなわけねーだろ、
と。

古今集の仮名序に

やまとうたは
ひとのこころをたねとして
よろづのことのはとぞ
なれりける

と書いている紀貫之がですよ?

技巧的で修辞的なだけの歌を
採録するわけないんです。

で、この歌は
どういう歌かと言うと、

伊勢物語」を知っている人には
その、あまりにも有名な初段の、

みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに
みだれそめにしわれならなくに

という「古歌」をすぐに
思い出しますよね。

「むかし、男ありけり」
という
昔語りの形式ですすめられる
伊勢物語」は、
「むかし人」の
歌と、それとともに語られる恋物語が多く、
これもそのひとつであり、

初段は初冠(昔の男子の成人の儀式)をしたばかりの
男の子が
「都以外の場所で」
ちらりと見かけた女性に
胸をときめかせて、
初めて恋の歌を捧げるという
なんとも若々しく、
きゅんとするような
歌物語のはじまりにふさわしい話が載せてあるんですね。

で、この男の子、
ちょっと大人びて
「古歌」を踏まえて
歌を詠んだりして
それもまたほほえましいんですけど、

「古歌」を踏まえるというのは
歌物語のはじまりを
神聖な趣にもしているんですね。

これは、そもそも歌というものが
現代よりも
もっと神聖だったから
だと思うんですが、
まぁ、詳しくは後述します。

先にも述べましたが、
「伊勢」は
主人公を在原業平をモデルにしたと言われていて、

初段の最後に
「むかし人は、かくいちはやきみやびをなむしける」
(むかしの人はこんな風に素直な情熱的な恋をしたんですよね~)
みたいな感じで、

昔への憧憬というか
古き時代を懐かしむような雰囲気があるんです。

だから、なんていうか
当時の人達の思う
理想的な世界というか、

そういう
素敵な恋愛話を
たくさん集めたような
みやびやかな話がたくさんあるわけですが、

きれいごとばかりではなくて、

怒ったり
がっかりしたり
笑える話とかもあって、

そういう意味でも
素直っていうか
いい感じに理想的なんです。

しかも
その話が結構センスが良い
っていうか、

例えば、

久しぶりにたずねる女を
男が窓からこっそりのぞいていたら、

女が自分でご飯よそってて、

(当時はご飯を盛るみたいな行為をする女性は
身分的にもはしたないと思われていたというのはあるけど)

男はそんな女を見て

大盛り二杯目か?
てか、予想以上にめっちゃ元気にしてるし!!

と思ったかどうかはともかく(笑)

とりあえず、
なんかがっかりしたorz

みたいな話とかもあって

こんな細かいこと
書いてる1000年以上前の
古典が存在するとか

日本の古典のハイレベルさを
痛感しますけど(笑)

「伊勢」の話では
結構地方の話が
多いんですね。

「かきつばた」の
東国への都落ちの話は
有名ですが、

なんらかの諸事情があって
都から離れた人達が
遠い土地で思いがけず美しい風景とか
人とかに出会ったり、

そのことをきっかけに
昔を思い出したりして
あの人どうしているかなぁ
とか、

だから
「昔物語」という形式にふさわしいんだろうとは
思うんですけど、

で、
しのぶもぢずりの歌の話に戻りますが、

この話も
元服したばかりの少年が
奈良の春日の里に鷹狩りに出かけたときに、

さびれた古都に不似合いな
美しい姉妹がいるのを
「垣間見て」
発情、
じゃなくて(笑)
心がときめいて

自分が着ていた狩衣の裾を切って
それを添えて歌を書いて送った
わけです。

そのときの歌が

春日野の若紫のすり衣
しのぶのみだれかぎり知られず

この歌だと
しのぶもぢずりのふまえている意味は
なんとなくわかりますよね。

「しのぶ」というのは
現代語で言うところの
「堪え忍ぶ」
とかいうときの
「がまんする」
の意味なんですけど、

奈良時代に使われていた
「しのふ」
だと、
恋慕う、とか
昔の人を懐かしく思い出す
という意味になるんです。

その辺りも
なんとなく古い時代を踏襲している感じです。

ちなみに我が家にある「伊勢物語」の田辺聖子さんによる口語訳の本の巻末に
伊勢物語の旅」として
榊原和夫氏が「伊勢物語」にまつわる地名、史跡をまとめておられていますが
その中の「信夫山(福島県)」の項に
福島あたりは、古くは「しのふの里」と呼ばれ、「伊勢」にも「しのぶ山」の歌があるが、
山頂の羽黒神社を紹介しつつも、本社に「伊勢」にまつわる話はなく、
阿武隈川を渡った文知摺観音堂
''もじずり絹''の遺跡があり、
''信夫文知摺石''というのがあって、
この石面で草葉の汁をすり、絹布に模様をプリントしたとのこと。

その巨石には言い伝えがあり、
麦の青葉で石の面をすると、
愛する人の面影が浮かぶという。

''嬉しくもはかないお話だ。''と榊原氏は
書いておられる。

まさに、その「しのふ」
なのだと思いますが、

たぶん、昔
「いはでしのぶ」のことを書いたときに
少し書いたとは思いますが、
その「しのふ」ですね。

つまり、「みちのく」の「しのぶもぢずり」という言葉で、

「伊勢」の情景、人物、そこでの想いのやりとり、そして空気そのものを
「思い出す」のであって、

簡単に言うと場面設定というか、
ある特別な世界へ導くような役割を果たしているんですね。

だから、表現として
「みちのく」の「しのぶもぢずり」というのを和歌に取り入れたのが、
河原左大臣が最初(だったのかどうかは知りません)だとしたら、
その意味で
「当時でも新鮮な印象を与えた」
と言えなくは
ないかもしれないけれど、

こういう序詞を「様式」として使っているのは
別にこの歌だけではないので、
大岡さんの評は
その意味でも若干おかしいですね。

むしろ、「みちのく」の「しのぶもぢずり」と聞いて、
それがわかる人間には

ああ、あのことか
と「思い出す」のであって、
「古歌」が読まれた当時を頭に思い浮かべることで
一瞬にして現世界とは違う「古歌」の世界へと
「時を遡る」わけです。

で、このブログを
丹念に読んでいる読者で
勘のいい人なら
この若紫の歌の時点で気づくと思うんですが、

そう、この若紫の歌
何かの歌に似てません?

句の前半の
春日野の若紫のすり衣
の「野」・「紫」・「狩衣」

そう、
天皇の御狩のときの額田王の歌

茜さす紫野行き標野行き
野守りは見ずや
君が袖振る

ですね。

その返歌
紫の匂へる妹のにくくあらば
人妻ゆへに我恋めやも

も含めて
「場面設定」が
似ているんですね。

なので、
天皇の御狩りという
行幸の場面設定を
借りているんです。

以前も、ちょっと書きましたけど、

古代日本の神様含めて
昔の人達は
超自由恋愛でした。

「いいな」と思ったら
即アプローチ。

野を越え、
山を越え、
会いに行きます。

古事記の歌謡に
こういう歌があります。

八千矛の 神の命は
八島国 妻枕きかねて

遠々し 高志の国に

賢し女を 有りと聞かして
麗し女を 有りと聞こして

さ婚(よば)ひに 在立たし
婚ひに 在通はせ


神様だってそんな感じで、

まぁ、西洋の
古代の神様達も似たような感じで
ゼウスとか
「そんなモノにまで変わるか!(笑)」
というくらいに
ありとあらゆるものに姿形を変えて
乙女と契りあそばされておられるじゃないですか。(笑)

そんなわけで、
日本の古代の神様の皇孫であらせられる天皇
言うに及ばず。

例えば、
応神天皇
近江に行く途中
木幡の道で美しい乙女に会って、

「帰りに絶対寄るからね!(* ^ー゜)ノ」
と約束して、

約束通りにやってきた天皇
乙女を目の前にして
歌った歌。

この蟹や いづくの蟹
百伝ふ 角鹿の蟹
横去らふ いづくに至る

(途中略(笑))

すくすくと 我いませばや

木幡の道に 逢はししおとめ
後手は 小盾ろかも
歯並は 椎菱なす

(途中略(笑))

斯くもがと 我が見し子ら
斯くもがと 吾が見し子に
うたたけだに 向かひ居るかも い副ひ居るかも


だいたいの意味↓

もうさー
蟹みたいに
ほうほうの体で這ったり、

水鳥みたいに
潜ったり
浮かんだりしながら、

一生懸命やってきたよ
この遠い道をさ

木幡の道で出会った可愛い子

首もとから背中にかけて
すらっとしてて
そそられるんだけど
振り向いて笑ったときの
小さな白い歯が印象的で
とってもかわいいし、
その健康的な肌の色も
いいなぁ
君の※※の※※を
僕の※※で
※※して※※したときの
君の表情が見たいな(はーと)

そんな風に
あんなことやこんなことを
してみたいと思ってた君に
やっと会えたよ

やっと君を抱けるくらいの
距離にね

もう、ほんとうに嬉しいよ!

(以上、※印部分自主規制(笑))

自主規制部分(笑)以外にも
いろいろと秘密のある歌のようですが、

まぁ、ね
こんな風に
好き好き言われたら
断れないですよね(笑)

それくらい
なんか
天真爛漫というか。

しかも相手は
天皇ですからね(笑)

普通に庭先にいたら
急に身なりのいい男の人がいて、
「ぼく天皇だけど、
君のこと好きだから
帰りに寄るからね」とか
いきなり言われても

家の人達も含めて
困りますけど(笑)

相手が
ある意味神様みたいな人だから
仕方ないっていうか、

当時は、
まぁ、それが普通。

でも、
天皇といっても
公務は年中行事の際と、
国内外をご訪問あそばされたときに
にこやかに手を振って
ご挨拶賜るだけではなく

国内外の反乱あれば
その鎮圧のために
戦地へ赴く
若く、たくましい
歴戦の勇者の趣も携えていて、
イメージはたぶん
だいぶ違います。

そういう
若き勇者のごとき
貴公子が
いきなり現れるわけなので、

なんていうか、
急に白馬の王子様が現れて
求婚されるのに
似ていますよね。

だから、そういうのに
憧れる人達もいただろうし
(てか、大半がそうだったでしょう)、

でも、万葉集には
自分の娘を宮廷に召す親の気持ちみたいなのを詠んだ歌もあったりして

打日指す宮に行く児を
ま愛しみ
留むれば苦し
聴去ばすべなし

(宮廷に召されて行く、
まだいとけない娘のかわいらしさに
引き留めれば心苦しいし、
行かせればやるせないし
どうしようもない)

みたいな

親御さんの気持ちも
わかりますよね。

もちろん断っても
大丈夫だったみたいで、

そういうところも含めて
身分とかそういうの関係なしに
素直に人と人が
自分の思いを伝えられる
そういうことが許される
理想的な世界であったことが、

万葉集の各階層の歌から
感じられます。

前半部分の蟹云々の話は
今手元にある本(岩波旧体系「古代歌謡集」古事記歌謡)には
゛饗応の際に蟹が出たのだろう゛とかいう
近世の注釈書をそのまま引用して注をつけてありますが、

というよりも
蟹のいる海辺(沢蟹だったら山かも)や水鳥のいる沼地に近いような
当時の道なき道を
苦労して辿りついた様子がよく現れていて、

まさに

かわぐちひろしは~
どうくつにはいる~
カメラさんと~
照明さんの~
あとからはいる~♪
(後半部分、昔ひょうきん族でやっていたネタですが何か?)

という
川口ヒロシ探検隊のごとく
乙女を目指して
ジャングルを進み行く
天皇様ご一行のご様子が
瞼に浮かんで
目頭が熱くなるほどで
ございます。(笑)

なので、
それくらい苦労して
君のもとにたどり着いたよ
という
天皇から娘への愛の深さを
示す、
多少大袈裟な表現であるということです。

自分の愛がいかに深いかという
これもその後の
和歌の表現の方法のひとつとなっていることは
ご存じの方には
言うまでもありませんが、

知らない方には
冗談さえ通じないかもしれないと気づいたので
一応、補足しておきます(笑)

まぁ、今でも
そういう表現ってありますよね?

僕の愛は
君の私生活全てを
手に入れたいくらい
深いのだ
とか?(笑)

こういう歌が
わざとらしく聞こえないポイントは
その喩えができるだけ
身近で親近感を
覚えられるか
或いは
逆にとんでもなく実際とかけ離れている
というのもいいかもしれませんね。

相手をくすっとさせて
気持ちをやわらげる効果があります。

僕の愛は
海より深い

という表現を
言ったとき

相手が

は?(#`Δ´)ナニイッテンノコイツ

みたいになっては
困るので

絶妙なタイミングと
そのときの状況
自分の立場などを
見極めて表現することが
大切です(笑)

なので、
この応神天皇の歌は
なかなか好印象だと思いますね。

当たり前の話ですが、
別にここでは
道がジャングルかだったかどうかとか
この歌が探検をテーマにしているとかいう主張ではありません。
(当たり前ですけどry)

まぁ、実際、当時は
道もそれほど整備されてはいなかったと思いますよ?(笑)
(そんなにムキになって反論しなくてもおk(笑))

まぁ、
蟹が饗応で出るくらいだとしても
結構遠い地方なんじゃないかと。

古代歌謡には
前述の高志の国(=越の国→後の越前・越中・越後あたり)とかの歌も出てきますから、

なんとなく
福井とかあのあたりの
蟹がとれるような地域を
漠然と思い浮かべますが、

それはまぁ、あくまでも
個人的な感想です。 

思うに、

古代の地名記述を巡っても
必ずと言っていいほど、
邪馬台国畿内説、九州説とかが強引に結びつけられて
論じられていたりして
うんざりしますけど、

そういうのって
関係ないんですよね。

魏誌倭人伝の記述の通り、
邪馬台国っていうのは、
「たくさんの国々の集まり」であって、
それが統一国家だったかも
確定しがたいんです。

私が、思うには
かなり個々の国々の独立性、自治が保たれていた
連合国みたいな感じがしています。

リーダーみたいな国とか、
主に外交を担当していて、
便宜的に代表として海外交渉にあたった国とか
連合国内で役割分担があったのかもしれないし、
現在のような統一された中央集権国家とイコールではないのではないかと。

上述の応神天皇行幸
古代原始連合国家
統一国家成立に向かう
少し手前くらいで設定してある気がしますが、

だからこそ、
リーダーとなる国は
各地の国々と
婚姻関係を結んでいた可能性もあります。

戦国時代に、戦国大名が国同士で
人質なるものとして
自分の家族を
交換したりしますが、

現代(昭和期くらいまで)の誘拐犯が身代金の要求のために
確保して、
殺すぞと脅したりする人質と違って、

同盟のしるしの意味のほうが
強くて、

人質先でその国の家族のようにもてなされていて、
子供は、違和感なく育てられたりしています。
(もちろん国同士の裏切りなどがあれば、
殺される可能性はありますが。)

そういうところに、
名残があるような気がしますが、

だから
政略結婚というより
同じ連合国内の仲間として、

婚姻関係を結ぶことで、
それぞれの国は違えども、
国全体をひとつの親族のようにみなしていたのではないかと思います。

だから、さまざまな土地に
さまざまな文献が残っているし、
そこには、さまざまな土地の歌が残っていたりもするわけです。

日本は島国だから
いろんなところから
いろんな人達が来て
住んでいた可能性はあるし、

それでいいんですよ。

別にひとつの独裁国家を設定しなくても。

それでも
昔から日本に住んでいた人達は
日本人なんです。

しかも、
古代に日本に住んでいた人達の数は少なく、
国と言っても集落程度だった可能性もありますし、
その集落の数と言っても
たかがしれていて、
近現代の「国家」と同じように考えることはできません。

連合国家があったとしても、
連合国以外の国もあったかもしれないわけですし、

そうなると、
誰が一番最初に日本に住んでいて
誰が最初に日本に「国」を作ったかとか
わかるはずもなく。

だから、ことあるごとに
自分達の地方が
邪馬台国だとか声高に叫んでいる人達のほうが、

むしろ古代日本の有り様や考え方を理解できない
後世の時代の人達だなぁ
って、
いつも思っていますが(笑)

徐福という人がいて、

秦の始皇帝
蓬莱島(中国における仙人の住む宝島のようなイメージ)を探すように
厳命された人なんですが、

秦の始皇帝といえば
中国全土を統一して
秦という一大帝国を成して
万里の長城を築いた皇帝です。

皇帝になったあと
始皇帝を待ち受けていた毎日とは
いつ殺されるかわからない
恐怖の日々です。

国家統一を果たした始皇帝を殺して、
その座を奪えば
簡単に統一国家の皇帝になれるわけですから。

始皇帝はいつ毒殺されてもおかしくない日々から
遁走したくなったのでしょうね。

そんなときに
蓬莱島という伝説の島について
どういう経緯で知ったのかわかりませんが、

まるで天国のように
思えたに違いありません。

その島を探すように
徐福に命じた
始皇帝の気持ちは
よくわかります。

おもしろいことに、
この徐福が
度々日本に訪れた形跡があるんですよ。

想像してみてください。

もしかしたら、
秦の始皇帝だって
日本に移り住んだかもしれないんです。

だから、
いろんな人達が
住んでいたんですよ。

別にいいんじゃないですか
古代のことはそれで。

そのことで、
今の日本人同士でいがみ合ったり
ケンカしたり
我田引水的な論を振り回したりしても
意味はないんです。

現代の日本の問題として
先住民である日本人を駆逐して
外国人にやりたい放題されたら
さすがに日本国民だって
怒りますが
それとこれとは
話が別です。(笑)

だから
よくわからない古代のことを
自分達のモノの見方だけで
あれやこれや言う人達とか
ほんと無意味だなぁ
と思います。

いろんな人達がいても
いいんです。

日本人は日本人なのですから。
それは、変わらないので。

現代日本
とりあえず、日本国民とは日本国籍を有する人を
日本人と言う
というのが社会的な定義であり、
それに則って
全てのルールが動いている。

それだけの話です。


そんなわけで、
話は少しそれましたが、

とりあえず、
そんな風に
天皇が宮廷の外に出かけるとき(行幸とか御狩とか)は
外の世界の女性との恋愛が
つきものであって、

それが、いつからか
慣習化されて
自由恋愛ではなくて
儀式みたいに
なっていったんだと思うんですけど、

巷では
よばひの風習は
近代に入ってからも(昭和期くらいまで)
各地に残っていたくらいなのですが、
要するに、
男なら好きな女性をモノにしたければ
自然な感じで(無理やりはダメ)
あたって砕けろ
(→もちろん女性は断ってもいいが、普通はあんまり断らない)
みたいな考え方は
一般大衆レベルではかなり時代を下っても残っていたようです。

古今集くらいまでは
宮廷風味の白馬の王子様的な雰囲気が残っていて、

雅やかな貴公子が
よその土地に行ったときに
ふとかいま見た女性に求婚する
っていう。

なので、
この「貴公子」、
「遠隔地(非日常的ロケーション)」、
「チラ見」という
三大要素が
当時の理想的恋愛(出逢編)には
必須であったわけです。

だから、
「茜さす」の歌について
額田王
宴席でプライベートな不倫の歌を歌ったはずがない
とか論じられていることがたまにありますが
ナンセンスですね。

むしろ、額田王の歌は
正統派であり
理想的な恋の歌であって、
そういう歌を
堂々と歌える額田王という女性は
魅力的な女性だったんだろうな
と思うわけです。

不倫がどうのこうのとかは
あくまでも
後世のモノの見方でそ。

というわけで、
話が少し長くなりましたが、

「伊勢」の初段のしのぶもぢずりの歌は
そんな感じ。


(というわけで、まだまだ続きます。
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