ボーダレス。


虐殺器官」の
この間の続きを見たよぬ。


ピジン
クレオールの話と

生得的文法の話は

別モノのように
思われます。


でも
「文法」の定義が
より広くとられていて
良いと思う。


言語学者

言葉という雑多なものから
ルールを見いだす。


というよりは

全ての研究者は

そうなのであって

本来は

自然哲学も
自然科学も同じであって

今でいうところの

文系とか
理系とかいう括りが

如何に無意味であるか

ということに

やっと気づいてくれましたか

という
出発点のような

映画であって

とても
良いと思いますた。



現世界の

学問のカテゴライズは

自分と違う「世界」に
生きるものの

「世界」に対する
考え方の違いのようなもの
とも言える。

現実世界で
生きる人間の


言語の違い

思想の違い

同じようでいて

個々が

それぞれ
「違う」

判断するもの。


その
些細な「違い」が


実は
多くの
人間の生死すら

左右している
ということ。


本当は
自明であるのに

誰も
そうである

認めようとしない
事実。



そのことが
ストーリーの軸にもなっていて

構成としても
よく考えられていると
思う。


ただ
これは永遠の命題とも
いうべき
性質のものでもあるので

やっぱり

結論は
中途半端というか

やっと
問題の入り口に
立ったな

くらいの感じ。


でも


たぶん
この入り口にさえ
立てない人もいるだろうし

まず
この映画を見ていない人は
そこに
その入り口があることすら
気づかないのだろうと
思う。


世界の八割方の人間は
そのことに気づかずに

一生を終えるのだろう。



私は

一体
いつになったら

話し相手ができるのだろうか
と思う。


境界線を越えて

真実を

語り合える

人は

いづこにぞ。



そんなことを考えながら

ポテチを食べつつ

虐殺器官」を見る
という

「世界」に

甘んじている。


そんな
夜であることよ

(*´∇`*)