有限と微小のパン。(後編)

(同日up記事前編からの続きです。↓)

あと
最近
図書館に久しぶりに行きまして。

大学の図書館ではなくて
一般人の行く公の図書館ね。

やっぱり
見たい本は
あまりないなあ
と思いつつも、

いつもの裏読み作戦で
自分なりに欲しい情報を手に入れられそうな本を借りてみました。

前回のブログ記事でお気づきの方もいらっしゃるかとは思いますが、

また最近裏テーマで
イースターなんです。

ワタクシ的にね。

まぁ、前から書いてますが
今は星の配置とかも
興味深くて、

この時期にやはり
今の世界の流れとか
その中の自分とかを
最近改めて考えたりして
結構おもしろいですね。

去年は
東洋的に十干十二支を使って
どんな年になるかな?
と考えてみたら
意外とおもしろかったので、
(GoogleChrome
まさに、って感じでしたね。)

今年は改めて西洋占星術もあわせて
考えてみました。

先程は論理がどうだの
実証がどうだのと言っておきながら星占いかよ?
と思う人もいるかと思いますが
それは勘違いです。

星占いも計算の世界ですから。

東洋に八卦というのがあります。

これ自体ですべてを現すわけではなくて、
これは組み合わせなんです。

例えば、デジタルの世界で
コンピューターは
二進法で記述されたものを読みますが、

人間には理解しにくいので、
それを4ビットとか8ビットにわけて、
それを16進数にして理解したりしますよね。

それと、同様のことだと思うのです。

人間の認識できる世界と認識できない世界のすべてを
人間に理解できるように
概念や記号に置き換えた場合の変数の組み合わせ
というか。

それを星を使って読み解くのが
占星術であり、

西洋占星術の場合は
ひたすら観測と計算で、
数字という記号で突き詰めていくけれども、
(ケプラーとか数学者の名前が出てくるのもそのため)

東洋の場合、
西洋ほど記号に頼らないという気もしますが、
やはり文字(漢字)という記号で
広げていく
っていう感じですね。

まぁ、方法論の違いはあれ
同じ地球に住む人間が
考えたことで
求める先にはやはり同じものがあったりするわけです。

で、
気になる現在の
実際の星の配置ですが、

数年前に少し書きましたが、

やはり
土星天王星海王星冥王星あたりが気になるところです。

普段の星占いだと
動きの早い星
(太陽、月、火星、金星、水星、木星など)を見ることが
多いと思いますが、

数年前から、
土星天王星海王星冥王星などの
スパンの長い星が
山羊座から魚座あたりに集中していて
終局、新展開みたいな雰囲気を
すごい感じるんですよね。

ここ最近では
土星海王星コンジャンクションがあったようですが、
土星天王星海王星冥王星のなかでは
動きの早い土星
他の星と関係していくことで
何か大きな流れが変わっていくような
そんな気がしています。

去年までは
なんとなく
天王星が強いなと思っていて、
最近は個人的には
土星が気になってました。

あと冥王星も。

数年前の記事でも
土星のことは少し書きましたが
最近いろいろ考えて
さらに少しわかってきたところもありまして。

で、
久しぶりに一般の図書館に行って借りてきた本というのは
気分転換になるかなくらいの気持ちではあったんですが

最近考えてきたことを
より裏付ける形になり

ちょっとおもしろかったので
書いてみようかな
と思います

が、

今回は既に長文になってしまったので
イースターが終わったら
機会を改めて書こうかな
とも思いますし

どうしよう。

まぁ、書けるところまで書いてみますかね。

まずスパンの長い星というのは
ひとつの星座に滞在する期間が
長いということなんですが
要するに公転周期が長いということです。

星占いでは
その人の出生図(生まれたときの星の配置)で
どの星座にどの星があるかを見ます。

で、
動きの早い星は
同じ時期に生まれた人でも
配置が違っていたりしますが、

動きの遅い星だと
同じ時期に生まれた人同士で
同じ場所にあったりします。

つまり、動きの遅い星が
とある星座に滞在している期間
その期間に生まれた人は
同じような星の影響を受ける
という感じです。

なので、
同じ時期に生まれた人同士で
同じような影響を受けるというか
似たような空気感、時代感を連帯しているような
そんな感じになるときがあります。

で、星がいる場所すなわち星座には
ハウスという概念があって
基本的には春分点のある
牡羊座から始まって魚座までの星座を
一人の人の一生のように考える考え方があります。

なので、各星座のだいたいの年齢域というのも設定されていて、

例えば、私の場合生まれたとき太陽が獅子座にありましたので、
普通一般の人達がよく言うところのいわゆる獅子座なのですが
と、同時に私の生まれた年は土星が獅子座にいました。

獅子座の支配星は太陽なので、自己を現すとされていて、
年齢域は
二十代くらいなんですが、
そこに土星

気になりますよね。

まぁ、土星がひとつの星座に滞在する期間は
2年半くらいなので
その時期に生まれた人達は
獅子座に土星があるわけなので
私だけじゃないと思うんですけど
このつながりも何なのか、
とか。

土星は試練の星とか言われていて、
東洋的な占いでは凶星とも
言われています。

なので、あまり好かれていない星なんですが(笑)

この土星について

土星とは一体?

ということを

これまでもしばしば考えてみることがありましたが、

やはりここ数年の星の配置が
気になり出して以来
数年前からいろいろと考えていて、

今回やっと少しわかったような
気がします。

まず
土星はサターンと呼ばれていますが
悪魔のサタン(Satan)では
ありません。

正しくはSaturnで
ローマ神話の中の
サトゥルヌス(Saturnus)という
もともとは農耕の豊穣の神様の名前に由来しています。

英語で土曜日は
Saturday ですが、
そのSaturnusです。
まさに、「つち(土)」の意味の
土星なわけですね。

その土星の神様がなぜ嫌われているかというと
いろいろと背景がありまして。

この土星の神様サトゥルヌス(Saturnus)のお父さんがウラヌス(Uranus) なのですが、
サトゥルヌスはお父さんのウラヌスの王位を奪います。

その際ウラヌスは去勢されてしまう。

で、サトゥルヌスは
自分が同じことをされては困るので
自分の子供たちを食べてしまいます。

その子供達の一人がゼウスで、
ゼウスはなんとか生き延びて

結局、サトゥルヌスはゼウスに
王位を奪われ幽閉されてしまいます。

ちなみに
サトゥルヌスを含め
神様の名前は
古代ローマギリシャの神々の名前で、

前述の
英語の火曜日から金曜日までの曜日名は
元を辿れば北欧神話に由来する神様の名前です。

後述しますが
この点と
サトゥルヌスが
子供を食べる逸話がある
という点を
ちょっと覚えておいてください。

で、土星という星自体についてですが、
氷に閉ざされた星です。

まわりにたくさんの小惑星を抱えています。

サトゥルヌスが農耕と豊穣の神様であるため
本当はもともと実り豊かな星だったのだが、
ある時期を境に氷に閉ざされた星になってしまい、

古代ローマ人達は
そこから逃れて
地球にやってきたのだ
という話が
ローマ神話にあるそうです。

だから、やはりサトゥルヌスと土星という惑星は
古代ローマ人たちのふるさとのような
ゆかりの深い星なのだと言えるでしょう。

ここで、ヨーロッパの歴史を考えてみると
古代ローマギリシャ
キリスト教勢力により
次第に滅ぼされていきます。

北欧神話
主にゲルマン民族を起源に持つ人達が
北欧に移住した後作られた神話ですが、

この北欧の神々達も
キリスト教勢力の北欧への進出によって
次第に姿を消します。

ここで、
今回図書館から借りてきた本の登場です(笑)

書名は「図説 魔女狩り」というやつでして、
ヨーロッパにおいて
中世より少し経って行われ始めた魔女狩りについて、
歴史的にニュートラルな立場というよりも
主に当時の制圧者側からの視点で
同時期の書物の挿し絵、絵画などを紹介しつつ見ていくというものです。

いかに魔女が当時のキリスト教文化・体制の規範から
外れた存在であったかという
事実無根の醜悪な魔女の姿が描かれたものを
これでもかというくらい載せてあります(笑)

筆者によると
魔女の異端としての
性格付けは
主に異教であることに端を発するのだということと

その異教徒達が行うとされるサバト
キリスト教の規範に反する淫乱なものであったため

激しい弾圧を受けたと言われていますが、

多分魔女狩りにあったのは
異教徒だったから
というだけではないのではないかな
と私は思いますね。

まぁ、根も葉もない根拠をもとに魔女だとして弾圧しているわけなので

その事実無根の書物や挿し絵や絵画によって
「そうではないといいつつ逆にヴィジュアル的に決定的に多くの人に印象付けた」
という
当時の魔女狩りの制圧者達と同じ理屈を
「図説 魔女狩り」に感じました。

異教徒を制圧したいために
弾圧するという
為政者のキリスト教側の理屈はわかります。

しかしながら、あそこまで大規模に事実無根の虐殺が行われたのは
民衆がそうさせたからだ
民衆がそうしたかったからだと私は思います。

魔女の特徴として
下記の点が挙げられます
・女性が多い(男性もいる)
・薬を調合する
・異教徒?
・魅惑的?淫ら?
・子供を殺す?
・天候を左右する?
・牛乳を盗む?
・空を飛ぶ?(裸で糸巻きに乗る)
・悪魔と契約する?

超自然的かつ事実かどうかわからない部分を除くと
あまり残りません。

結論から最初に言うと
キリスト教統率下における異端の排除という理由があったことは事実ですが、
それは建前であって
たぶん民衆の行き過ぎた私刑が
魔女狩りを大規模化させたのだと思います。

例えば、魔女とされる人は
薬を調合することができました
異教徒であった可能性もありますが
その土地で培われた経験、知識等にもとづき
薬の調合ができたのだと思います。

同じように、その土地に長く住み、
風土の特徴を理解していた彼女達は、天候の変化などについても熟知していたのではないかと。

それらの悪い面(薬の調合を失敗したとか天候を読み間違えたとか)や
根拠のない悪いデマ(自分達が薬を調合できないことや天候や災害を予測できずに被害を受けたことへの八つ当たりのようなもの)が
彼女達に対するいわれのない事実へと変化するのは
昨今のBBAどもの言動を見ても
古今東西通じて共通である点は否めないでしょうね(笑)

おまけに
魔女とされる女性達が、
その土地においては
新興宗教であるキリスト教の禁欲主義と違って
性に奔放な古代ローマギリシャ的な魅力を備えているとなれば
男性が惹き付けられないはずはないです。

なので、例えば魅惑的な、誘惑的に描かれた魔女の絵は
禁欲主義のキリスト教文化の中では淫らな絵画ではあっても
男性の本能的には
ほぼほぼエロ絵に等しく
(後年のポルノグラフィティってやつですね)
描いている人達も
恐らくその気満々だったと思うんです。

しかしながら、為政者側としてのキリスト教勢力の
異教徒弾圧は激しく、
もともと土着の女性たちは
恐らくは土地や仕事を奪われたり
いわれのない噂で家庭を奪われたりして
貧窮したり
娼婦に身を落とす女性も多かったのではないかと
考えられます。

そういった女性達と
男性が社交の場としていた集まりは
サバトのようだと
言われたでしょうし、

悪魔と契約している
という事実のねじ曲げ解釈にもつながるわけです。

前述の著書でも
少し触れられていますが

魔女たちは
土星支配下にある」
悪魔と契約していると言われていたそうです。

恐らくは、サトゥルヌスは農耕の神であり豊穣の神ですが
日本でもそうであるように
古代の神々は
アマノウズメ(漢字が出てこねえ(笑))のように
れっつ裸族であったので
禁欲主義のキリスト教下では
好色、淫ら、不謹慎
と言われていたらしく

そして、その限度を越えると
異教徒がキリスト教に対して反目している
ということが言われ始めてしまうわけです。

(ちなみに、アマノウズメが天岩戸の前で天照大御神
「出ておいでよー」と
ストリップするのは皆さんご存知でしょうし、
野村萬斎さんのお父様の
野村万作さんは
ベジャールボレロを見たときに
アマノウズメだ!」と
思ったらしいです。
ボレロ自体が酒場での女性のストリップを
もともと表現していることは
以前、当ブログの記事でも書きましたが、
ベジャールの謝肉祭の演出でもわかる通り、
ベジャールは古代の文化や神々と心で通じていたのだろうなぁ
と改めて思った次第です。

deco-noriko.hatenablog.jp
(参照 
blog.goo.ne.jp


deco-noriko.hatenablog.jp

↑ちょうどゆづるんの世界選手権敗北あたりの記事ですね。)

前述の著書でも
どこにでもありそうな収穫祭の際の楽しそうな男女や
バッカス(お酒の神様で、好色な神様)や
その従神サテュロス
お酒を集めている姿が描かれている絵が紹介されていますが、
(この絵を見て、淫乱な異教徒の悪魔崇拝の夜会と思う人達がいたというわけですが(笑))

その様子が楽しそうであればあるほど
厳しい禁制下の人達から見れば
怒り心頭、憎さ無限大になり、

その怒りの矛先が
誤った方向に向けられることになるわけですよね。

わかります。

コロナ下でライブに行く人達に対する憎しみ
みたいな感じですよね。
(本当かどうかはともかく。)

すごくわかります。

でも、実際は
迫害されていた女性達は
生活が困窮した上、
村八分のような目にあうため、
ヤギのミルクをこっそり盗んだりすることもあったんだろうなと思いますね。
(本当にしたかどうかはわかりませんが。)

そして、娼婦に身を落として
父親のわからない子供を妊娠したり、
産んだりすることも
あったでしょうし、

でも、育てられないから、
子供を堕ろしたり(殺したり)することもあったのかもしれません。

そういうことも、
悪魔と契約したために
父親の存在しない悪魔との子供を孕むとか
土星のサトゥルヌスの子殺しの逸話
と結びついたりして
魔女は子供を殺すという歪曲につながるわけです。

(先程覚えておいてくださいと書いた'子供を丸飲みする逸話'ですね!
ここで漸く出てきました(笑))

まぁ、
事実無根の噂だって
よく考えたらわかることなんですが
「そういう風に解釈したくない」人達がいるわけです。

そして、

やれ淫乱だ売女だ
神への冒涜だと
無理やりな建前ときれいごとで

気の毒な何の罪もない女性達を
裸にしたり、
火炙りにしたり、
挙げ句肉を削いだり、

それこそ
自分達が叫ぶ建前とは
真逆の人間の醜悪さを剥き出しにしたかのような行為を行って、

それを多くの民衆が
何の反発もなく見ていただけでなく、
煽ったり、嬉々として他の女性を魔女として告発したりして

魔女達の公開処刑日には
物見の見物客よろしく
大勢の民衆が集まったと聞きます。

禁欲主義を唱えつつ、

女性達が目の前で拷問を受けて苦しむ様子を見て

押さえきれない陰鬱な興奮を沸き上がらせていた

いつの時代も変わらない

人間という

そこのお前らだよ。




思うに、

三島由紀夫の「仮面の告白」は

そういうことなんだろうと
思うのです。

三島由紀夫のすごいところは
磔に処された聖人が

残酷な仕打ちを受ければ
受けるほど
美しく輝き、

人々の性的興奮をそそるような対象にまでなることを、

それこそ残酷にも
まっすぐに表現した
ということです。

数年前の世界選手権で
ゆづるくんが敗北したとき、

エキシでのゆづるくんの
「春よ、来い」の美しさを
私が文章に書いたのは

ゆづるくんの
白さが美しくて
書いたからではなく、

(まぁ、それもあるかもしれないけど)

血まみれで傷だらけに
されてもなお
清らかなゆづるくんが
美しかったから
書いたんだよ。

あのときはね。

そう
あのときは
そう感じたのです。

まぁ、
あんまり(ていうか全然)伝わらなかった
みたいだけど(笑)

あのとき
ゆづるくんは
きっと
別れ道に立っていたんだろうと
思う。

その後も
傷だらけで
ゆづるくんは
堕ちていった。
(と、私は思った。)

堕とされていく
ゆづるくんを見て

おばちゃんたちは
何が楽しいのだろうか。

寒気がしました。

おまけに
ゆづるくんまで
それに乗っかっちゃったのか
あんな感じになっちゃって。


まぁ
いいのよ、別に
わかってくれなくても。

私が死んだら

わかってくれる神様達が
天国でたくさん
待っていてくれるので。

いいの
別に。


…というわけで

話が若干それましたが(笑)


魔女狩りの話の続きをば。

そんな魔女狩り
転機を迎えるのが
18世紀を目前とした頃、

もはや魔女狩り
ただの言いがかりと拷問死のセット以外の何物でもなくなっていた頃、

まず法学者から
魔女裁判における拷問の不適切性が指摘され始めたわけです。

前述の著書によると
契機は、とある一家が
拷問によって引き出された自白から魔女だと認定されて
ほぼ皆殺しにされたということがあって、

異教徒がどうの
とか
そういうことさえ一切関係なく
拷問して、それに耐えかねた人達から自白さえ引き出せれば
魔女として認定されて殺されるという仕組みが出来上がってしまうと
機械的に誰にでもあてはめられる可能性があり、

それこそ、明日は我が身隠れて~♪
みたいな状況に
なってしまうわけですね。

以前、
人を殺してはいけないのは
自分が殺されないためだ
ということを書いたことがありますが
まさにそれですね。

子供に聞かれたら
今後そう答えるようにしたら
よろしいかと(笑)

話は戻って

それから、「科学」というものが台頭してきて
物事の論理性が問われ始め、

空飛ぶ魔女とか
悪魔と契約とか
そもそも神様とか
それで死刑とかどうよ?
という空気になったわけですね。

もともとキリスト教側でも

魔女の超自然的な魔力を肯定しなければ魔女として認定できないが、

神の奇跡のように超自然的な力を魔女が持っていると、
魔女の存在自体が神に等しくなってしまうため
そのことは認めがたい

というジレンマがあったそうですが。
(そりゃそうだ。(笑)

前にも書いたことがありますが、
例えば、
前述のエレカシのおばちゃんたちの
「あの子が宮本さんと関わっているはずがない」
という思いと、
「関わっていると思うからこそ気になって激怒してしまう」という思いの
ジレンマみたいなものですね(笑)

要するに矛盾してる
ということです。

全然論理的じゃないんです。

気にしないといいつつ
気にしすぎなんです(笑)

決定打となったのは
コペルニクスの地動説が
ガリレオ・ガリレイによって
証明され、
天動説が否定されたことだったそうです。

皮肉なもので
地上における誤った天の理屈が
天の真実を見抜いた人間によって正されたわけですな。

それからウン百年。
(綾小路きみまろ風。←激懐。)

「科学」というものが
ある到達点に至り、
底打ちして
論理性や客観性が
地に落ち、

情報戦争っつたって
嘘情報しか飛び交ってない。

建前と
その場しのぎの理屈さえあれば
真実さえ必要とされないような
昨今でございます。(笑)


知っていましたか?

惑星には
名前がついているのですが、

後から見ると
なんとも似つかわしい名前になっているのです。

魔女狩りが行われていた頃は
ギリ土星までしか見つかっていませんでした。

なので、土星
最果ての、これ以上はないという極限を意味しており、

つまり
こちら側とあちら側の
境界に位置するような星だったみたいで
とても恐れられていたようですね。

魔女達が行っていた
と言われるサバトでは
山羊みたいな悪魔が出て来る絵が描かれたりしますが、

前述の従神サテュロスも半獣神であり
もともと山羊座の支配星が土星なんですよね。

なので山羊の姿という。

めぇ~。

ええ。
ただそれだけのことです(笑)

その後、科学台頭時代1781年に
天王星が発見され、
天空神を意味するウラヌスの名前が付与されました。

(ちなみに
空の神様がウラヌス、
地上の神様がガイア
そして、その子供がサトゥルヌス
というわけです。)

ウラヌスは始め全世界を支配していましたが、
前述のようにその子サトゥルヌスに去勢されて王位を追われてしまいます。

天王星は、ずばり科学を意味したり
変化、革命を意味したりします。

アメリカの独立戦争があったのもこの頃ですね。

追って、
1846年に海王星
1930年に冥王星が発見されます。

なので、
極限とか最果てのという意味は、
現在は冥王星が担っており、
冥界の王プルートの名前は
まさにぴったりですが、

個人的には
海王星も世界と世界の境界を意味しているんじゃないかな
と思う
今日この頃です。

地球から見て
軌道の関係から
海王星より
冥王星が近い位置のときもあるので、

海王星が境界として存在し、
冥王星は別世界だけど
位置は自由みたいな雰囲気。

海王星は海の王
ネプチューンの名前が与えられています。

海王星の意味としては
目に見えないものを表しますが
物質でも主に液体系。
海はもちろん、酒とか、ドラッグとか、
違う世界をつなぐ感じ?(笑)

あと石油(海王星が発見された直後くらいに発見された。)とかも表すそうです。

歴史的に見れば、石油も私達の暮らしを
別世界に変えましたね。

あとは、芸術系の音楽とか、
ソフトウェアとかも。

コンピューター関連でも
ハードだったら天王星
ソフトだったら海王星と書いている人がいて
なるほどと思った記憶が。

あとは占いですね。

海王星の意味は
結構多岐にわかれてるんですが、
こうして見ると
なんとなくわかる感じですよね。

で、最後に冥王星
前述のように極限、この世の果て、世界の終末、
死とか性的なもの(セックスとか)も
表します。

冥王星の物質的な意味合いとして、
プルートの意味とも直接つながるプルトニウム
ですね。

冥王星の発見は試験管内での原子核の分離が始めて行われた時期とも重なり、
原子力の意味も持ちます。

ちなみに冥王星が発見された
1930年は大規模な世界恐慌が始まって
ニューヨークで株式が大暴落し、
結果、第二次世界大戦が始まった頃なんです。

個人的には
核を用いた戦争は
もう起こらないと思っていますが。。。どうでしょうか?

今回も
現段階では
冥王星の物質的な意味合いはそれほど感じていませんが、

結局物質的であれどうであれ、
冥王星の意味合いが
集約されていく先は
同じであると言えば
そうなので
なんとも言えないところですね。

そんなわけで、
これらの超個性的な星達が
集まって
終局に向かってたり
新展開になるかもとか思ったら
気にならないわけないでしょ?
という感じなんです。

なんか世界規模で
何かが動いてるような気がしてならないし
数年前から
それが実際に起きつつある
いや、起きている感じを
ひしひしと感じるのであります。
はい。

去年くらいまで
天王星が強かったなぁ
となんとなく感じていて
天王星は今牡牛座にいるんですけど
天王星牡羊座から牡牛座に移動したのが
2019~2020年頃で、

ということは、
天王星魚座から牡羊座に移動したのは
2012~2013年頃なんですね。

ちなみに天王星のウラヌスは
物質で言うと
ウランちゃんのウラニウムですね。

これも原子爆弾と関係の深い元素ですが、
(プルトニウム
ウラニウムから抽出された
原子爆弾の材料となる元素)

天王星が一旦終局を迎えた
魚座から牡羊座に移動の
2012~2013年頃あたりで考えると、
関係しそうな出来事と言えば
日本では
2011年の東北大震災のときの
原発事故とかかなぁ、
と思いますね。

あれはやはり
ひとつのエポックメイキングな出来事であり、

東北大震災以前と以後とでは
日本の状況が変わってしまいましたからね。

天王星の、変化・革命の意味とも符合します。
(まぁ、私はテロと思っているのですが、
テロを起こした人達から見れば革命なのかもしれません(笑))

天王星魚座から牡羊座へ移動した頃
恐らく天王星は、一度終局を迎えて
新しい局面に入ってます。

多分、同じ時期に
海王星とコンジャクションしているはず。

このことから想起されるのは
(直接的には津波による災害っていうのもありますけど)

やっぱり
先程少し書いた
コンピューターのハード面での変化って感じですかね。

2012年頃と言えば
スマホの普及が一般的になってきた時期ですが、

海王星(ソフト面)とのコンジャクションも含めて、
ソフトの変化がメインのハードの製造が主流となっていった、
とか。

牡羊座に入ってからは
VPNとかが本格的に一般化してきて、
情報戦争にも突入
(牡羊座の支配星火星は戦いの神様、積極性とか戦争とかをあらわすことも)

2020年頃
牡牛座(金星)に入ってからは
若干流動的な金銭メインの動き(電子マネーの本格的な商業利用一般化とか?)
って感じですかね(笑)

まぁ、なんとなく
情報系の変化というのが
気になっていたので
そんな感じですが、

GoogleChromeChrome はクロムでしょー?

なんとなく予想はできるが
まぁ、こちらは一旦保留で
ぼちぼち
見ていきますか

というところですね。

で、これから気になるのが
やはり
土星海王星冥王星の動き。

ちなみに、木星
一巡りしてつい最近
新展開に突入と言ったところですけど、
行きつ戻りつしつつ
来年の始めくらいから
本格的にやる気を出す予定(笑)

土星は来年の春頃
魚座に入り、
何らかの最終局面を
迎えると思います。

前回の魚座入りが
1993年頃になりますので
1996年くらいから始まった
何かが
決着を見るかもしれません。

海王星
今、魚座にいて
再来年の初夏頃新展開。

こちらは
実に164年ぶりの
牡羊座への帰還。

前回は1860年
1860年頃と言えば、

アメリカでは南北戦争が、

日本では
1853年のペリーの来航後、
幕末も幕末な
てんやわんやな時期ですね。

やはり今回の末世感は
でかいぜ(笑)

まあ、
始まりと言っても
大きな流れの始まりってことなので
いきなりドカンとくるわけでは
ないだろうし。

他の星(動きの早い星とか)との関係は
まだ見ていないので
なんとも言えませんが、

今後は
来年、再来年あたりの土星海王星の動きも考慮しつつ見ていくことになると思います。

先を見通すと
土星海王星のコンジャクションも起こるはずです。

一番動きの遅い
冥王星は、今、山羊座にいて
こちらも来年の春頃に水瓶座に移動するので
そのあたりがポイントでしょうね。

また来年の
Easter頃考えてみることに
いたしましょう。

なんとなく、
ポイント的に
アメリカの動きって感じがしますね。

ていうか
日本で占ってると
当然アメリカの動きが
関係してくるわけですけど、

日本とは関係ない部分でも
世界的にアメリカの変化が
キーって感じがします。

つられて日本
って感じなのか
どうなのか。

まぁ、日本は
現在うんこ化が進んでいるので
もしアメリカが倒れた場合、
残されると
かなりつらいですね。(笑)

世界に太刀打ちしたりとか
もちろんできないし、

なので
アメリカが
変に今の日本に肩入れして
足元掬われてってことに
なる可能性もあるので

まぁ、様子見ですね。

ってことも

たぶんアメリカとかは
既にわかってるとは
思うんですよね。

だって
アメリカには公的な
天文学研究機関がきちんと整備されていて
日本の占星術の本とかにも
アメリカの天文学がどうのこうの
って
ほんとにもう必ず書いてあるからね(笑)
(今はどうかわからないけど、
たぶん変わってないと思う。)


まぁ、もしかしたら
アメリカもまた
情報系の機関のしくみが変わって
昔とは違う情報収集やってるだろうから
天文学は二の次かなぁ?

足元を掬われry

日本の情報とか
ピンキリですからね(笑)
(私が見かけるのはうんこばっかりだけどw)

うんこみたいな情報ばっかり
見てると
ほんと、日本も終わりが近いな
と本気で思いますが。

そうそう
今回、図書館でもう一冊本を借りてて
北欧神話とバイキング」という書名だったと思うけど、

もうテキストの扱い方が酷かったから、
神様の名前を再度確認するくらいで
他は読まずに終わりました(笑)

あとがきに著者なりの
意味不明のテキストの取り扱い方の基準が書いてありましたけど
いやいや原典と違う言葉で翻訳する時点で
既に注釈ですからね
と誰か教えてあげてください。
ていうか、原典は詩なのに
日本語の簡単な要約文だけ載せて
テキストに対する態度も糞もないと思うの。
(しかも40編中8編しか載せてないという。)

ああ、思い出してつい怒りが
(笑)
ごめんなさいねー。

一般の図書館相手に
大人げないことを言いましたが、
一般の人達は
こんなもの読まされているんだなぁ
と改めて納得。

まぁ、でも
前に九博の作業補助の仕事の募集で
面接に行ったときのことを
思い出すと、

国博とかもそんな感じみたいだから
どこも変わりないのかな
とも思ったり。

(この話はおもしろいので、
機会があったら書きますね(笑))

今回借りた本はどちらも2017年頃出版とか
書いてあったから、

やっぱり
もう巷では古い本とか
見られなくなったんだなぁ
と思いました。
(にしても2017年とか新しすぎません?
基本的な世界各史くらい普通に置いとけよとか思うのは私だけなのか?)

どこを見ても素人だらけ。

素人だから能力が足りないだけならまだしも
意図的に偏った情報のみ拡散させているところが
うんこだなと思いますが。

まぁ、そんなこと言っても
仕方ないので
星占いの話に戻りまして。


ノストラダムスが予言した
世界の終末は
1999年7月でした。

特にその近辺では
何も起こらなかったと
みんな安心していましたが、

もしかしたら
そのときから
ゆるやかに何かが始まっていたのではないかな
と最近思います。

1990年代に入って
日本のいろんな機構が
少しずつ崩れていったのではないかと。

それが目に見えて
壊れていったのは
やはりバブル崩壊以降、

いろんなところで
組織自体の仕組みや体系が
変わっていきました。

雇用にしても、
一度、若者世代をロストした時期から
既雇用者に対しても大規模なリストラが
行われましたし、
今も大規模な企業になればなるほど
大半の雇用者が流動的であり、

日本のお家芸でもあった
知識や技の積み重ねや
その伝授なども行われなくなりました。

結果、企業の質も低下、
開発競争や市場進出にも
世界に対して一歩も二歩も遅れをとるようになったどころか
企業の存続すら危ういような。

まぁ、その流れに拍車をかけているのが
例の寄生虫みたいな
人達ですけど。

そんな感じですよねー。(笑)

土星の神様サトゥルヌスは
ギリシャ神話での別名を
クロノスとも言います。

サトゥルヌスも
おそらく「季節(season)」とか「始まり(start)」とかいう意味に
由来すると思われますが、

(ちなみに当ブログの名前も「季節」を表すラテン語「sationem」でして、
このあたりについて書いた記事もあったはず。)

クロノスも時間を表す神様です。

例えば、クロニクルという言葉(編年史という意味)があります。

時間軸に沿って
時間を積み重ねて
蓄積した歴史ですね。

例えば、積み上げたブロックの
途中のブロックを
ひとつ取ると
積み上げたブロック全てが
脆くも崩れてしまうように、

時間というのは
一度空白を作って、
そのつながりを断ち切ってしまうと
それを戻すのは
困難です。

時間は戻れないので。
(今のところ。)

それと同じようなことが
クロノス(サトゥルヌス)の逸話にも見られます。

自分の子供達というのは
自分を受け継いでいく存在であり、

それを恐れて
或いは忌避して
子供を殺してしまったとしても、

結局は
自分が守ろうとしたものを奪われ、

その後に待ち受けていた結末は
寒々とした、生き物も住めないような環境。

それと似たようなことが
日本でも起きているなぁ

前から感じていました。

そして、実際の歴史というものは
そういうもので

ヨーロッパにおける
古代ローマギリシアから
キリスト教勢力へ
そして戦後の資本主義国家へ
という流れもまた

同じ。

現在は、
物欲主義を掲げた人達にとっては、
禁欲主義のキリスト教
異端かつ反抗分子と見なされて攻撃される恐れもあります。
(現在のキリスト教の建前と実際はわかりませんが。)

実際、今回の
コロナ情報戦争下では
(ネット上の情報が嘘でないなら)
ヨーロッパの中でも
イタリアが
深刻な被害を受けていたのは
たぶん偶然ではないでしょうし、

世界各国間の
某お友達グループじゃない
ロシアで戦争が勃発しているという情報が
日本で拡散されているのも

たぶん偶然ではないでしょう。

(ロシアのフリーメールは
ときどき使わせてもらっているので、
ロシアまで情報統合されてほしくないなぁ。)

資本主義の物質文化は
当初、全ての人達が
平等に豊かさを分け与えられるような
夢と希望を持って人々に受け入れられましたが、
ある程度の到達点を迎えたあと
そこから
オーバーフローするとともに
様々なものが欠落しはじめ、
行き詰まりを感じている国、
人々も多いと思います。

おまけに
今後は
地球上でのイニシアティブが
人間から
別の存在へ移行される可能性も
充分に考えられ、

今までの認識を飛び越えるような
超異次元な世界も目前の
昨今です。

同じ人間同士で争って
自分達と違うものを排他しても
将来的に
待っている環境は同じかもしれません。

(だから、古代中国では
禅譲という考え方も生まれたわけですね。)

日本の不思議なところは

今もなお
そこかしこに
古代の神様が生きているし、

この国に生きている人間で
その感覚がわかる人が
まだいるんですよね。

江戸時代末期、
ちょうど明治維新直前に

「ええじゃないか」
というのが
ありました。

空から天照大御神の札が降ってきて、
みんなが踊り狂うという(笑)

当時の厳しい幕制下に
抑圧されていた民衆のフラストレーションが
一気に爆発したんでしょうね。

それが倒幕のきっかけになったとも
言われています。

今の日本は
まるでそれを恐れているかのような気配を感じます。

(前も書いたけど、「コロナ」って絶対太陽の「コロナ」だと思うし。)

厳しい状況の中、
たくさんの人達が
亡くなったり、困難な状況に追いやられたりしています。


思えば、
ドリフターズってさ
古代ローマ的というか
れっつ裸族だったよなー。

ていうか
日本って
文化的に意外とそのあたり
おおらかだったじゃないですか。

志村さんが
バカ殿やったりしてたのも
なんか江戸的というかね(笑)

亡くなっている人達って
そういう人達ばっかりだよね。

高畑勲監督は
れっつ裸族じゃないけど
やさしい人だったなぁ
と思います。

「ホタルの墓」の感想で
せっちゃんが死んでいくところが
実は怖いくらいのエロさがあると書いていた人がいて
鋭いと思ったことがあるけど、
せっちゃんも'刑に処せられた聖人'と考えれば
納得がいくんです。

「ホタルの墓」で
生きているせっちゃんと
せっちゃんが死んでいく姿に
何の残酷さも感じない日本人は
もはや日本人ではないと私は思う。

けど今の日本人は(若者は特に)
何の感慨もない人達が
多いみたいですね。
(今の子供達は、本音と建前が既に違うことを知っていて、
インタビューとかでも
それっぽいことを上手に言えたりするが
本当にそう思っているわけではない。)

その残酷さを
高畑監督は
まっすぐに描いたんです。

高畑監督って
ドキュメンタリーの人だから。

よくわかります。

そもそも
戦争は
国とその国に属する人達で構成される
社会が起こしたものなのですが

その国に属する人達は
誰も反発せずに
当たり前のように
たくさんのものを
奪われていきます。

お兄ちゃんとせっちゃんは
空襲で
お母さんを失います。

お母さんを失ったあと、
住む場所(家)も失い、

居候のように新しく住み始めた家では
当たり前のように
おばさんは
お母さんの形見の着物まで
さっさと売り払います。

せっちゃんはどんどん
明るさを失っていきました。

お兄ちゃんは
せっちゃんと
二人で生きることにしました。

二人が
さまざまなものを
どんどん奪われて
悲しい思いをすることのないように

そういうものから
離れて
自分達が思う通りに
生きてみたいと
思ったのだと思います。

それは、お兄ちゃんが
そう思ったことで

せっちゃんは
何もわからないけど

お兄ちゃん
お兄ちゃんと言って

楽しそうに
ついてきました。

それは
お兄ちゃんのわがままかも
しれないと
言われるかもしれないけど

お兄ちゃんは
そうしたかったんだと思います。

お兄ちゃんなりに
せっちゃんを幸せに
してあげたいという
お兄ちゃんの愛しかたでした。

でも、
それは

社会というものから
離れて
小さな二人が
生きていくということは

あまりにも
無謀なことでした。

いや、
結局、
二人は社会という枠組みの中で、
死んでいったと思います。

そうなることを
わかった上で

お兄ちゃんは
せっちゃんと二人で
暮らしました。

まるで、
おままごとのような

おとぎ話のような

短い間の
二人の暮らしでした。

せっちゃんは
死んでしまいます。

栄養失調で。

小さな体が
もっと
小さくなって。

せっちゃんは
人形のように
動かなくなってしまいました。

わかっていたことだった
かもしれません。

でも、
お兄ちゃんは
二人で幸せに暮らしたかったし、

いつかまた
せっちゃんに
ドロップを買ってきて
せっちゃんに
喜んでもらいたかったのだと
思います。

ただそれだけだったと
思います。

せっちゃんを
殺してしまうかもしれないと思ったかもしれないけど、

でも、お兄ちゃんは
そうしたかったし
そうしたんです。

わがままかもしれないし、
一方的かもしれないけど

それは愛です。

だから
それを官能的に見る人がいても
おかしくない。

けど、
そんなお兄ちゃんに
せっちゃんは

お兄ちゃん
お兄ちゃんと言って

何の疑いもなく
何も言わず

でも、お腹をすかせて
いろんなことを夢見ながら
死んでいったんですよね。

そこには
ひとりの女の子の
無垢な死があったに過ぎない。

けれど、
それは
尊い死だった

と言えば
なんとなくこれも
上から目線な
傲慢な言い方になってしまうので、

そういうのじゃなくて。

わかってたら
やっぱり
なんとかしてあげたかった


誰しも思うと
思うんですよね。

そうじゃない人が多くなる社会だと
当たり前に戦争をしてしまうんです。

思うに、

人間が進化したと言っても、

社会が進化したと言っても

こんな小さな二人が
生きていけないようんですよ。
日本の社会って。

そんな社会に
何の意味があるんですかね?

それは
戦時中の話だから
仕方ない


諦め顔で言う人もいるかもしれません。

でも、
そうではないんです。

それを
現代に置き換えて描いたのが

是枝監督の

『誰も知らない』

なのではないかと思うんです。

結局、

子供達はもちろん

人が
自由に生きていくことすらできない社会とか

意味があるんでしょうか。

建前だけの
理屈を振りかざして

人の心の
柔らかなところや

痛いところを
わざと傷つけたり

或いはくすぐったあと
突き落として

挙げ句
追い詰めて
命まで奪っていくような
人達ばかりが

主張して
社会を作っていく。

結局は
自分達が生きるために
あるいは
単に自分達の欲求を満たすためだけに

他の人達を排斥していく。

そんな社会や生き方に
何の意味があるんでしょうか。

私は、
イチぬけたい。

高畑監督が
かぐや姫の物語』で
描いたかぐや姫は、

怒って
そこから飛び出します。

せっちゃんみたいに
笑って
清らかに死んではいかなかった。

でも、
かぐや姫
人間じゃないような
なんだかよくわからない
皆から嫌われるような存在なってしまうような
結末は描かなった。

ちゃんと
会いたい人にも会えて、

きれいに死ねるような
結末にしてくれていた。

高畑監督は
やさしいな

思いました。

でも、
結局かぐや姫

天から
お迎えがやってきて
強制的に
月に連れ戻されてしまうところに
怖さがありました。

結局、
社会というものから
逃れられないような。

それは
「ホタルの墓」で
お兄ちゃんが
なんかパリッとした服装で戻ってきて

どこからか手に入れたかわからないけど
買ってきたドロップを
せっちゃんに渡しながら

おばさんの家に戻ろう
と言ったとしたら

そんな気持ちになるかもしれないな

というような。

夢の終わり。

夢の終わりは
生きることの終わりでもある。

高畑監督は

ごく何気ない日常の
人びとの生き方、考え方を
ずっとアニメにしてきました。

それは
失われていく
人びとの生き方、考え方でもあった。

「じゃりん子チエ」も
「隣の山田くん」も
そうでした。
(「隣の山田くん」は、
どちらかと言うと元アニメを現代風(←当時の)にアレンジしてありましたが。)

失われていくことが
わかっていたみたいに。

こういう生き方を
取り戻そうという主張を
するわけでもなく

淡々と
見つめ続けていました。

あとから、
高畑監督が
福岡にある柳川のクリークの映像を撮りにきたことがあると知って

そのとき初めて
高畑監督はドキュメンタリーな人だったんだな
と思いました。

(是枝監督も
もともとドキュメンタリーを
撮っていた人だから
やっぱり考え方が
似ているのかも?)

高畑監督の映画で
山を崩していくブルドーザーと一緒に
しゃべるたぬきとかが共存しているのも
高畑監督が
そう見たからそうなんだと
思います。

トトロと同じですよね。

だから
ドキュメンタリーに
間違いありません。


宮崎駿監督も
(宮崎駿監督は亡くなってないけど(笑))
違う意味でやさしい。

虫めづる姫君
生きづらいだろうな
と気になったり、

ナウシカ
もともとは
いきなりお父さんがいなくなって
一人であとをついで
生きていかなくてはならなくなったお姫様がモデルで
大変だろうなと思ったのが
最初の構想だったらしいし、

魔女の宅急便」の
キキも
きっと
魔女狩りのことを
知っていたからこそ
魔女だけど
かわいらしい普通の女の子として
描いたんじゃないかな

私は睨んでいる(笑)

それから
風立ちぬ」も
そうだろうなぁ
と思う。

あの頃、
宮崎駿監督は
奥さんと
かつてハンセン病の患者が
収容されていた施設に
行ったりしていたらしい。

本当は
結核じゃなくて
ハンセン病患者の
設定にしたかったのかも。

私もブログで
ハンセン病を題材にした本について
一度書いたことがありますが、
遠藤周作の本で
『わたしが、棄てた、女』
というのがあるんですが、

この本に出てくる女の子も
ある意味聖少女なんですよね。

なんか
それを思い出したり
してました。

本人たちは
そう思ってすらいないと思うし、
そういう言葉を
決して口にしないと思うけれど、

きっと、
そういう人達のことを
本当の意味で
思いやりがある人達と
言うのだろう

私は思う。


今回は土星のことが
少しわかって良かったな
と思います。

冥王星山羊座(土星)にいますが
そのことも
無関係ではないと思います。

最果てのどこかからの
メッセージというか。

土星のサトゥルヌスは
本当は
きっと、楽しいことが大好きで、
人の喜ぶ顔が大好きなんですよ。
大きくて懐の深い星なんだと思うんです。

だから、
土星
昔は豊かに実りのある星だったのだろうし
小惑星もあんなにたくさん集まっていて、
見た目も
なんかきれいじゃないですか。


でも、いろんな悲しいことがあって
今は閉ざされてしまっているけれども
それでも、その静かな沈黙の中で
少しずつわかるように
語りかけてくれているような
気がします。

わかってくれる相手には
わかってもらえるし
伝えられると理解できる。

だから、土星
そんなに怖い星ではない。

今年の冬、

時に
粛正とか
断罪のような
或いは
逆に免罪のような気配さえ
感じることも
あったのは

きっと、
そういうことだったのだなぁと思う。


神様は平等で
生と死を
同じように与える。


それと同時に
朝の冷たい透明な光を通して
響くアリアの
その背後にある
やわらかな光。


きっと、冬の枯れ草の下に
春には新しい芽を出そうとしている
その息吹。

今まで、土星
試練の星だとか
制限の星だとか
そういう側面ばかり
思っていたけれど、

その氷の世界に閉ざされた
その内側には
実は
あたたかなエネルギーや
たくさんの草や花や
笑いや喜びが眠っていて、
いつか、また目覚めるときが来ることを
望んでいる。

そんな風に
感じる。

そして、いつか

その時が来ることを
私は信じている。

太陽は
その光で
全てのものをあたためてくれる。

だから、
太陽の近くに土星があることは
いいことだと
私は思いました。

そんな感じで。

前回の記事で最後に貼った曲は、
ドラクエⅢのほこらの曲です。

(前回の動画は
サムネイルの写真が
雰囲気を出していたので
気に入って貼らせていただきました。)

ドラクエはやっぱり
Ⅲ、Ⅳの世代なので
曲もそのときの曲が好きです。

ドラクエの世界の
ほこらというのは

世界の至るところに
ぽつん、ぽつんとあって、

入ると
教会だったり
旅の扉があったりする。

旅の扉というのは、
入ると
別のところにある旅の扉
つながっていて

全く別の場所へ
行けたりする。

小学生の頃、
一人で山で遊んでるときに

ぽっかり空いた原っぱみたいなところに出ると

ほこらがあるような気がして
探したりしたことが
あります。(笑)

ドラクエの世界は
結構古代の神話をモチーフにしていて
実は地名とかも神話から
とっていたりするんですよね。

ほこらは西洋風なんだけど

でも、日本の祠の雰囲気にも近いものがある。

原っぱの枯れすすきの影の
他のものとは雰囲気の違う岩とか

ずっと昔に
神様が祀られていた石とか。

その下で
誰かが眠っているような

ふと見ると
気づかなかった石段が
あるような。

きっと
それは、
どこか別の場所に続いている
旅の扉

そういうのを
一人で探したりしてました(笑)

ドラクエのほこらの曲を聴くと
そのときのことを
思い出します。


指先に触れる
草枯れの
軽いススキの感触。

秋から冬にかけての
つめたい空気と
乾燥した風の匂い。

やわらかな日差し。


ほこらのメロディーって
簡単だから
リコーダーでも
吹けるんですよね。

だから
なんだか
そういう笛の音が
よく似合うと思います。

オカリナみたいな。

風と一緒に
その笛の音が

遠く
遠くまで

運ばれてゆく。

本日のタイトルは
森博嗣さんの
小説より。

もしかしたら
記事タイトルとして
既に何度か使わせていただいたことがあるかも。


There is not a franction of truth.



すべてがFになる



それでは、またねー☆彡