目に見えない目に見えるもの。

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こんばんは。

今日は夕方から雨になった福岡です。
今日もなんだかいろいろあった一日でした。。。

というわけで、
以前から言っていましたフィギュアについて
書こうと思っていたことを
今宵は書きたいなと思います。

今日書こうと思っているのは
「無意識の領域」について
です。

まぁ脳科学がどうのこうととかではなく、
私達が生活するうえで
“認識できる”と考えられている事柄と
“認識できない”と考えられている事柄の

要するに、

心と体とのつながり

といった程度の

簡単なことについて書きたいと思います。

例えば、今年に入ってから
一度、紀里谷監督が出演されている番組の動画を貼ったときに、
(リンク→)
トークのもう一人のゲストの
ゲーム界のAIの第一人者であるさんの言葉で、
「…例えば、私達が目の前のコップを認識して、
 そのコップを掴もうとするときに
 既に、手はコップを掴もうとする形状に合わせている…」
というような

自分で“手をこんな形にしろ”という命令を下すことを認識する以前に
“手が”なんらかの命令を脳から受け取っている
というレベルにおける“無意識”といったところでしょうか。


で、このことについて
どんな風に説明したらいいかな
と思っていたら、

先日、法月綸太郎さんの『生首に聞いてみろ』を読んでいて
ちょうどよい説明があったので、
少し長いですが引用してみます。

(下記、引用ですが
 小説の場面が別のことを説明する会話部分で、
 語尾が話し口調になってます。)

 

法月綸太郎
『生首に聞いてみろ』(p210-212)

「アテナは献上された首をアイギスと呼ばれる山羊皮のたての中央に据えたという。
シンボルとしてのメドゥーサの首は、ゴルゴネイオンと名付けられ、
魔除けの護符の役割を果たすようになった。
フロイトは『メドゥーサの首』という短い草稿で、首の切断を去勢コンプレックスと結びつけ、
ゴルゴネイオンの首の持つおぞましさを、母親の性器を目撃した少年の恐怖と解釈していてね。
メドゥーサを見たものが石と化すのは、勃起を意味するというんだが、
メドゥーサの首という表象の最大の特徴は、やはりその恐るべき目にあるのではないか。
石化の恐怖とは、眼と視線の交錯に由来するものなのだから。
そうした観点を重視すると、メドゥーサの神話は、いわゆる邪眼にまつわる物語の典型と
見なすことができる。」

「邪眼というと、evil eyeのことですか?」

「うん。ロジェ・カイヨワは『メドゥーサと仲間たち』の中で、この物語を昆虫の擬態や
眼状紋の人間化の形態だと解き明かしている。ジャック・ラカンもカイヨワの論に触れて、
動物と人間の間に見られるミメティスム、すなわち擬態の類比性に強い関心を示した。
カイヨワ=ラカン的なミメティスム論が芸術の領域でも有効なら、従来のミメ―シス論と
は別次元の議論を開く可能性があるということだ。」

「ミメーシス?あまり聞き慣れない用語ですが」

「勉強不足だな。古代ギリシャ語で、模倣を意味する言葉だよ。
現実や自然の対象を再現し、描写することが芸術の起源であるという考え方をミメーシス論という。
だが、ゴルゴネイオンは敵から身を守り、また敵の力を奪う強力な護符にほかならない。
もともと鏡を用いることで首尾よく切り落としたものだとしても、視覚表現のレベルでは、
メドゥーサの首が単に鏡像的な模倣の所産にとどまっているとは言えないだろう?
護符であるからには、何よりも恐るべき敵、あるいは見えざる魔に対して、
呪術的な威嚇の力を発揮しなければならない。
だからそれは自然を真似たスタティックな写しというより、実用的な効果をもたらす
ダイナミックな装置として作り出されたものだ。
この敵という概念を、未知のもの、彼方のもの、深淵、もしくは闇といった表象不可能なものの
領域に設定すればミメーシス(模倣)ではなく、ミメティスム(擬態)という行為を通して、
芸術の異なる起源に遡行することができるのではないか。
鬼面人を驚かす、ゴルゴネイオンとしての芸術という視点だね。(以下、略。)」


ちょっと長くて難解なところがあるかもしれませんが、


要するに表現には
ミメーシス(模倣)とミメティスム(擬態)という
二つの方法が考えられ、

古くより“現実や自然の対象を再現し、描写することが芸術の起源である”
というミメーシス(模倣)論が言われていたわけですが、
それとは別次元で、例えば
昆虫の擬態或いは、眼状紋が“人間となった場合にどのようになるか(人間化)”
というように、
それそのものが変化する、とでも言ったほうがよいのでしょうかね

表面上の“写し”であるミメーシス(摸倣)に対する
内実的な“変化”をミメティスム(擬態)と呼ぶわけです。

よって、
これは、
ミメーシス(摸倣)が“目に見えるもの”のそのままの目に見える表現とすれば、
ミメティスム(擬態)が“目に見えないもの”に由来する(遡及する)目に見える表現
という言い方もできるのではないかと思います。


これをフィギュアスケートに置き換えてみますと、

例えば、こういう形に手を動かす、足を動かす
そこから発展してステップをする、ジャンプをする
など、
いろいろな表現が“型”としてありますが

(元々を辿るとその型は具体的な何かを表したものかもしれませんが
とりあえず、現状ではいくつかの型としてほぼ決まっているけれども
その由来まで知っている人はあまりいなくて)

与えられたそれらの型について
みんなできるだけ“上手に”目に見えるように表現することであるので、

これはミメーシス(摸倣)ということができます。


では、フィギュアスケートにおいて
ミメティスム(擬態)とは一体何のことを言うのでしょうか。

そう考えると
“目に見えるもの”のそのままの目に見える表現であるミメーシス(摸倣)
よりも
“目に見えないもの”に由来する(遡及する)目に見える表現であるミメティスム(擬態)

より高次的な表現であると思われます。

例えば、

プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」
というプログラムは

ジャンプやその他の表現等は別にして
プログラムに何か決まった型というものがあるわけではなく、

プルシェンコ
ニジンスキーとは一体どのようなものであるのかについて

ニジンスキーの表現したもの、技術
或いは
ニジンスキーという人そのもの
或いは
ニジンスキーの想い、考え方

などについて

それらを含めた

ニジンスキー”というひとつの何かについて

まるで
プルシェンコ

“それそのもの”になったかのような表現を行いました。

それは、まさに
ミメティスム(擬態)と呼べるような

“内実ともに変化する”表現なのではないかと
私は思います。

近年とくに
フィギュアスケートでは

どういうジャンプを跳んだかという技術に関することに
重点が置かれた採点がなされていますが、

芸術的に見ても
“見た目がどうである”ということにばかり
とらわれている選手が多く

コーチやその他の関係者も
 “芸術的表現とは何か”ということを
 考えていないのではないかというような気がしていますが、

それはさておき。

今回、私はこの文章を
ゆづるくんのために書いていますが

さて
ゆづるくん

ミメティスム(擬態)という表現を行うには
どのようなことをすればよいと思いますか?

いや、
とりあえず、ジャンプが飛べなくなってしまったことについて
どうにかしたい
と。

はいはい。
よくわかりますよ。

でも、
ミメティスム(擬態)
という考え方が

とても重要だと
私は考えています。

冒頭に述べましたが
人間は
脳からの指令によって動いています。

ミメーシスが
ある程度自分の認識できる範囲内で
表現できるとして、

一方、
”無意識の領域”における
自分の体への指令も
自分できちんと把握できること

これがとても重要なことだと
考えるからです。

つまり、
その部分をコントロールすることができれば

自分が認識なくても
体が自然とやってくれるし、

何よりも
その他の様々な認識に左右されることがない
ということです。

つまり、
それそのものに変化してしまえば

“表現する”という意識すら
もたなくてもできるようになるかもしれないのです。


さて、
では、どうすれば
そのようなことができるようになるのか。

それは、
全てのイメージを完全に把握し
体の内部から変化させる
ということだと
私は思っています。

まずは、
意識を“変化”のみに集中することです。

“自分が別のものになる”ということに
集中するべきです。

ここでは
一切の雑念を排除した方がいいでしょう。

その代わりに
そこにすべて表現したいイメージを
投入します。

元となるイメージについては
プログラムで表現したい“イメージ”です。

ジャンプを飛ぶ、
手をこういう動きにする、
とかいうことではありません。

そのプログラムで表現したい
“目に見えないイメージ”です。

今シリーズで
ゆづるくんのプログラム
「Origin」は
プルシェンコのプログラムとは
全く違う。

ニジンスキーにまつわる表現が
まったく見当たりませんでした。

技術的にも特に
ニジンスキーの要素などが入っているわけでもなかった。

そこで、
です。

私が提案したいのは

“目に見えない”ニジンスキーの表現を
追求してみてもいいのではないかと。

少しだけ
ゆづるくんも
以前言っていたと思いますが

ニジンスキーにおける
“感情或いは精神の高まり”
について
です。

残念ながら
いろいろなことがあったせいもあり

その表現が
「Origin」で発揮されることはありませんでしたが、

いまのプログラムを変えずに

ニジンスキーの精神性を
表現してみたらどうかな


私は思ったのです。

もちろん、プルシェンコのプログラムも
ニジンスキーの精神性は
とてもすばらしく表現されていました。

そして
そういうプログラムを
プルシェンコは見事に作り上げました。

ゆづるくんは

「Origin」で
いろいろな独自の表現を取り入れています。

例えば
ジャンプも
技術的な面でのみ考えるのではなく

ニジンスキーの超絶的な飛躍力を
ニジンスキーの精神”として表現すると

それは、間違いなく

プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」とは
また違った素晴らしいものとなるでしょう。

そうするためには
ニジンスキーの精神”を手に入れなければ
なりません。

では
ニジンスキーの精神”
つまり、
ニジンスキーが追い求めたものとは
一体なんだったのでしょうか。


以前、ニジンスキーについての記事を書いた際に
唯一残っているニジンスキーによる振付
「牧神の午後」を見たかと思いますが

その後のニジンスキーの生き方を見ても

ニジンスキーがどのような精神性を
そこに求めたのか
私にはわかります。

ゆづるくんはなんだと思いますか?

ヒントはね

前に書いた記事で
ニジンスキーと同時期に活躍した
ある女性舞踏家です。

彼女は、ニジンスキーのように
技術もなかったけれども

人々を魅了したのです。

そして、その表現は
ニジンスキーが晩年まで
追い求めたことと
つながっていると

私は思います。

それを、ゆづるくんなりに
考えてみてください。


精神がニジンスキーになれば

きっといろんなことが
できるようになると思います。


リンクの上では
ニジンスキー”になりきるのです。

一切の雑念を
排除して
そのことだけを考えてください。


リンクの氷も
空気もゆづるくんの味方をしてくれます。

それは、ゆづるくんが
一番よく知っているはずです。


世界選手権は

カナダであるのでしょう?

ゆづるくんが
いつも練習している国じゃないですか。

空気も
温度も
風も

近いでしょう?

だから、
いつもそういう自分の身体に触れるものを
自分の身体に行き来させるように
したらいいと思う。

ゆづるくんなら
いつもやっているでしょう?


ゆづるくん

人間の体は
素粒子の袋のようなものなのです。

だから
いつもいろんな細かな粒が
体の内と外とで
行き交いしては混じりあっているのです。


「SEIMEI」のとき
ゆづるくんにとって

萬斎さんが舞うのを見たことが
とても大きかったのではないかと
私は思うんです。


萬斎さんは
自分の一部を
ゆづるくんに与えてくれたし

ゆづるくんは
それを
しっかりと受けとめて

自分のものとして表現する力も
もっていた。

だから、
自分が見るものと
見られる者との間には

そこでも
“目に見えないやりとり”が
存在するのです。

時には
それは

別の記号や想念などを媒体として

違った時代や
違った場所においても

やりとりすることができる。



それを把握しているのは

人間の脳であり
それを
心というのだと
私は思います。

だから
人間は
自分のなりたいようになることができるんだよ。


自分の意思で
自分の身体をつかって。


だから
ゆづるくんも

なりたいように
やりたいことを

やるべきです。

せめて
リンクの上では。


ゆづるくんが
こうやりたい
やるんだ

ということに
信念を持ってください。


自分のやることは
全て正しいのだと

頭と体に
わからせてあげてください。

(松岡修造っぽい言葉ですが
 似て非なるものです。(笑))

今年のGPシリーズの緒戦を覚えていますか?

あのとき
ショートプログラムで滑走する前

「ありがとう」
って言って

ぷーさんの顔を
くしゃって
わしづかみしたでしょ。


あのとき
ゆづるくんは

嬉しそうな顔をしていました。

あのときの気持ちは

噓じゃないでしょう?


ゆづるくんは

嬉しいから

嬉しそうにしたのです。


その自分の気持ちを
ちゃんと認めてあげてください。

そのあと
ショートプログラム
行っているときに

順調にいっていたのに

ゆづるくんは
ふと、
違うことを考えたでしょ?

私は
そのとき
ゆづるくんが
考えたことがわかります。


「あれ、あれでよかったのかな?」

って思ったでしょ?

図星でしょう?


それがね
脳が
「えっ、なんか違うの?」

って思って
混乱したから

ジャンプを飛ばしたんだよ。


ゆづるくんの
脳は
身体に対して
すごく繊細な指令をすることもできるから
余計にちょっとした
感覚の違いとかも
きっと敏感に反応してしまうんだよ。


今回のGPシリーズでは、
私も
少々いろんなことを
言い過ぎたと

反省しています。


だから、
ゆづるくんも
いろんなことに対して

もっと強い気持ちで
いてください。


プログラム中は
何が何でも
自分がやっていることは

全部正しいと
思うようにしないと

ていうか

自然とそう思えるように

ニジンスキーになりきる”ことが
大切なのではないかと
思いました。



ゆづるくんは
美しいです。

その指先も

全部が。


だから

余計な心配は
しなくていいよ。


ゆづるくんは

正しい。



そう思って


楽しく


気持ちよく

滑ってください。


そんなゆづるくんを

当日は

指先から
足の先まで


見ています。


もしかしたら
また
「SEIMEI」のままなのかもしれないけど。。。



そのあたりは
ゆづるくんが
後悔のないように決めてください。


なんかね
今は

みんな新しいこと
というか次につながる何かをやった人が
勝つような気がするよ。

なんとなくだけど。


ゆづるくんが
新しい世界にいけますように

祈っています。


自分のためにも。(笑)

だって、
そんなゆづるくんが

見たいからです。




世界選手権まで
あと1か月弱ですが

あまり気を張らずに

たまには
散歩でもして。


(でも変な人に
襲われないようには
くれぐれも気を付けてね。)


私は
たまに山とか自然のあるところに行って

素粒子の入れ替えを
やっています(笑)


体がすっきりするよ。


やっぱり、
自然と体の相性は

一番いいのです。


ではでは、公開お手紙のような形になりましたが
この辺りで。

ちゃんとゆづるくんに
届くといいけどな。

(一字一句違えずに。(笑))


他の選手のみなさま方も
がんばってください!

素敵な世界選手権になりますように☆


というわけで

夜も更けましたので

おやすみなさい☆★☆

           *       *      *

未来にはこんなことも(笑)

法月綸太郎
『生首に聞いてみろ』(p504)
「・・・(略)・・・
 法医学が進歩すれば、死体の網膜に残った感光色素ロドプシンの分布をデータ化して、
 死の直前に被害者が目にした犯人像を再現処理することも可能になる―――
(以下、略)」

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すずめのこ いぬきがにがしつるぅー。