達磨さんの目。

こんにちは。


今日は体調不良ということで
お仕事はおやすみです。


なんか
昨日の夜のブログのせいか
お隣にあやしい車が
たくさん来てますよ。


隣の家の空き地に
倉庫みたいなのがあってさ
たまに人が出入りしてんの。


母親の話だと
夏だけボートとか作ってる
会社らしい

という
誰も信じられないような
話を
普通の顔して
言ってた。


わかる?
庭の木の上の方が
刈り取られてるの。

ちょうど私の部屋の窓が
見えるくらいにね。


あからさまに
監視してますよ
みたいな体。


だいたい
活動し始めるのが
この時期くらい。

まぁ
私が
年度末は
会社に縛りつけられてる
からじゃないの?(笑)


朝の自動車といい
監視の名目で
嫌がらせしている
ストーカーさんたち

に「見える」ね。


公安気取りなのか
ほんとに
そういう関係の人達なのか
しらんが

単なるキチガイどもには
変わりない。


人をさんざん
陥れたやつらが

仕返しされると
怯えきって

やっと
できることが
せいぜいこれくらい。


この間書いたけどさ

公安って
誰の味方なんだろうね

ある一定の権力が
その勢力をふるうために
誰かを犠牲にしたり

私利私欲のために
犯した罪を
上手に隠蔽するための
組織なのかしら?


普通は
逆と思われてるけどね。

ま、
そういう善悪の基準すら
わからない人達も
いるのかもね。


「地方」の公安には。


警察とかも
田舎はあり得ないレベルだものねぇ?(笑)

やさしい田舎の駐在さんとか
お話の中にしかいないんだと
思うわ。

その人間が本当に人を殺すかどうか
その区別も
わからないから

地下鉄サリン事件
起きたんだよね。


ほんと
お笑い草だわ。

あ、

ちなみに
隣にいる人達は
どっかに雇われた
地下人間たちだろうと
思うわ。


それくらいのレベルにしか
見えない(笑)


私を
監視してさ
嫌がらせしてさ

私が
死ぬまで
何の罪も犯さず

私が
死んだあとに
お前らの数々の悪事を
告発したら

お前ら
どうするよ?(笑)

誰が
その責任とるの?


お前らの安泰は
私が
生きてる上で
成り立っているだけ。


私を
殺してみたら?


でも
殺すには
晒しすぎたね。



ほんと
おもしろい
事実だわ。


昨日の夜の人は
あまり出てこない人だから

安心しなよ。


ただ
勘違いしてる馬鹿が
多かったから

教えに来てくれただけ。


とても
効果的に。


早く
理解してほしい。


「私達」の
存在と


「私達」の
考えていることを。


絵音くんが好きなあの子も
当分出てこないわ。


あの子は
誰にでも
やさしい子なの。


誰でも
愛そうとする。


ずっと眠っていて
目覚めたばかりだから

まだ
未熟なのよ。


私達に比べれば

生まれてまもないし。


でも
彼女も
私達の一部だから。


ちなみに
昨日の人は
ルーラー。

rulerね。



昨日の夜は
残穢」という映画を
見ていたんだけど

とあるきっかけで
彼女が出てきて

私達が
映画を見ている間に

ちゃちゃっと
書いてくれたの。


物事の本質と
これから
どうするか
っていうことを。


物事は
成るべく
成り立っている。


昨日の映画には
面白い符号があった。


実は昨日の朝
達磨について
書こうと思っていたんだけど

それはね
達磨って
よくわからない存在だから
扱わない方がいいよ
ってことだったの。


京極夏彦
魍魎の匣」という小説で
「魍魎」はよくわからない存在だから
祓うには危険ということを
京極堂が言うんだけど

それと
同じ感じかな。


昨日の映画でのキーワードは
「取り扱い注意」
ってことです。



達磨は
面壁九年という修行で
手と足が朽ちるまで
座禅を組み続けたと
言われている。

このブログでも
前に
達磨は
恐らく実感として
その「手足が朽ちる」という
事実を体得したかったのか
そうだとしたら
すごいことだと

書いたことがある。


でも
今は
考え方が
少し違っている。

つまり
多くの宗教の祖と言われる存在に纏わる
エピソードとして
「受難」というのがある。

ずば抜けた存在となり得た者には
それ相当の「災厄」が
身にふりかかる。

例えば
キリストが
十字架に打ち付けられたように。

教祖と呼ばれる
人だけでなく

表に
あるいは
頂点に立つことなく

けれども
その存在を認められたものは

社会に殺され
社会に受け入れられることも
なかった。

日本の天神さまこと
菅原道真の説話も
それに近い。

だからこそ
死後もその存在を
人々の心に植えつけてきた。

そのような形で
始祖としての達磨を考えると
やはり修行の結果と後に言われたのも
実際には長い間地下牢などに
入れられて
手足が朽ちた結果なのではないかとも
思う。


キリストが
自ら望んで
十字架に架けられたように
達磨もまた
何も言わず
座禅を組み
地下牢の岩壁に
向き合い続けたのかも
知れない。


手足が朽ち
達磨が
本当に生きていたのかも
定かでない。


微動だにしない達磨は
(手足が朽ちるという環境から考えると)
もしかしたら死蝋化していたかもしれない


岩の洞窟に閉じ込められて
置き去りにされ
人々の記憶から消え去ったあと

ずいぶん長い時間を経て
偶然発見された達磨の姿は
手足は朽ちているものの
それ以外は
当時と変わらず。

それが
人々にとっては
奇跡のように
思われたのではないか。

死蝋化して
死体が生前の姿を
ありのままに残したとしても
恐らく
手足が朽ちるのとおなじように
目玉は死後
早い段階で朽ちおちただろう。

だから
きっと
ほんとうの達磨には
目がないと思う。

だから
きっと
目があったら
達磨は
生き返るとかなんとか
思われたのかも
しれないですね。


ここのところ
私が考えていたのは

そんなことです。


別に
なにか
調べたわけでもないし

見たわけでもないので

単なる予想ですが。


だから
達磨は動かない。

落とさないように
そっと運ばないと
壊れてしまう。


目のない達磨さんに
目を入れてあげましょう。

そういうこと
なのではないかと
思われます。

一方で

人は
手足のないものを
馬鹿にしてきました。


見せ物小屋と呼ばれるところには
先天的或いは
後天的に手足のない人が
「こぼし」として
見せ物にされていました。

簡単に言うと
手足のある人間が
手足のない人間に対してもつ
優越感というやつを
商売にしたものですね。


そういう感情は
現在にも
綿々と受け継がれていて

その起き上がりこぼしのような
達磨の姿と

七転び八起き
ですか

七転八倒
ですか

そこらへんの言葉と

よくある
教室で
意地悪な人間が
気弱な人間に対して
足をひっかけて
わざと転ばせるような

ちゃちな感情ですかね

そういうのが
いっしょくたになって

現在の
「だるまさんが転んだ」
という

概念が出来上がっている
ようです。


ただ
達磨はもともとは
死蝋化した目のない
死体だったものかもしれません。

達磨がどうして
地下牢に
入れられたのか

その理由も
わかりませんが

たぶん
どうでもいい
理由でしょう。

おそらく
現世と同じく
人々は
見殺しにしたでしょう。


達磨が
祟り神の要素を持つものとなったのなら

その達磨を地下牢に入れた者(恐らく時の為政者)は

達磨の目を
怯えながら入れたでしょう。

それが形骸化して
今でも
悲願成就の暁には
達磨に目を入れ

不思議なことに
今でも日本では
選挙で勝利したら
達磨の目を入れるというのが
残っているのかも
しれないですね。


ってことを
考えていると
面白いほどに
つじつまが合ったので

書いてみようかな
と思ったわけです。


なので

達磨さんのことを
つらつらと
書いてみました。


そんな

達磨さんの目を

入れる?


お前らが?


ほんと
笑っちゃうね。




*      *      *





達磨さんの

目が入ったよ。



ほら

達磨さんの

目が
開いた。



よく
見てごらん。



これが

今の

現実


呼ばれる

世界。




         2017/5/23/11:45