日々是生活。

もう一つのブログにupしたものをこちらでもupしておきます。

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こんぬつあ。


どうも、お久しぶりですね。

もう季節は梅雨ですよ。

梅雨。

今日は6月最終日ですが
福岡は雨が降ったり、やんだりのお天気です。



4月、5月とフィギュアスケートについての記事を
書いてみましたがいかがでしたか?

一応、4月の国別まで(テレビで)見てまして
いろいろ思うことがあったので
書きました。

前からフィギュアスケートのことについて
ちゃんと書きたいなと思っていたので

とても良い機会になりました。


個人的に
日々いろいろなことがありますが

ゆづるくんやプルシェンコさんをはじめ
フィギュアスケートの選手の方の
素晴らしい演技を見て

世界の断片が理解できたり、
本当に心救われるときがあるので
そのことを私なりに伝えられたら
という気持ちと

フィギュアスケートをとりまく環境を見ていて
(他のところでもだいたいそうなのですが)
それって、どうなのよ?
と思うところが多々あり、

思わず書いてしまったという感じです。(笑)

いつものことですけどね!!(笑)

→書かずにはいられない性格。



プルシェンコさんの「ニジンスキーに捧ぐ」については
実は去年ゆづるくんがそのプログラムをやると知った時期くらいに
書きたかったことなんですけど

まぁいろいろありまして
PC妨害(←笑)含めブログ自体書けない状況が
途中であったりもしましたし

前々回のブログの記事にも書きましたが
敢えて何も書かずに世界選手権まで
見たかったこともあり、

でも、
この機会に書けてよかったかな
と思っておりまする。


5月のブログの記事を書いたあと
いろいろ忙しくて

まだPCも復活できていない状況ですし、
ここ最近は月1回程度で更新していますけど

今回は何を書こうかな的なことも
全然考えていなかったため

本日は、とりあえず6月に一回更新しとかなきゃな
という感じで

何も考えずにPC(←家の)に向かった次第です。


というわけで
何も考えてないので
本日は軽く近況報告的な形で
済まそうと企んでおります(笑)

これから
7月にいろいろと準備を開始して
また8月くらいから
本格的に書けたらいいな
とか
思っていますけど

いや、
9月くらいになるかな?

まぁ
また何が起こるか
わからないんで

とりあえず予定ということで。

(いつものごとく
予定は未定であって決定ではない
ということで。)

8月の本格的な更新(ほぼ日々更新)スタートできたら
以前、書こうと思っていた
スピッツ関連の記事ですとか
いろいろ書きたいなと思っていますし、

今年の9月からのフィギュアスケート(GPシリーズ)についても
書きたいな
とか思っています。


いろいろ野望はある(笑)


最近はネット自体あまり見ていなくて
(→なければないで普通に過ごせてます)

昔使っていた携帯で
日々のあれこれを写真に撮ったりしているくらいですけど

会社のお昼休みに
ちらっとゆづるくんの動画とか
見たりしてるー。


ファンタジーオンアイスのやつが
ちらっとupされてたのも
ちらっと見れて。

オペラ座の怪人のプログラムのやつね。


また違ったゆづるくんの一面を見ることができて
なんだかどきどきしましたわ(*´∀`*)←

それから
プルシェンコさんの演技も
ちらっと見れて

アダージョという過去のプログラムらしかったですけど

静止しながらのジャンプが
ニジンスキーを彷彿とさせて
すごいなと思ったりとか。

そんな感じで
たまにちらちら見てます。


音楽は
会社の行き帰りの自転車に乗っているときに
聴いたりしているけど

感想みたいなのを
書いてない曲ばっかりなので

いつか書きたいなと
思ったりもしています。

それは
まぁ
そのときのタイミングで。

映画関連は
全然見てないですけど

以前WOWOWで録画してたのを
最近たまに見てたりしてます。

(でも6月中旬くらいまでは
忙しくて見る暇なかったし。)

最近上映されている映画とかも
映画館付近通った時に
「何が上映されているのかしらん」
と思って上映内容だけ見たりしてるけど

あまり興味を持てるようなものがない。


そう言えば、

この間
博多駅
地下通ってて
ゴジラの宣伝してたので
「またゴジラか。」
とか思ったけど

ショートムービー(?)
みたいなの見て

キングギドラのリメイクっぽかったけど
それはなかなかおもしろそうだった。


海外の人達のほうが
ゴジラの面白さについて
理解している(笑)

数年前の日本版ゴジラより
断然良さそうだった。(笑)


あれ
なんだったんですかね?
(→ゴジラというより日本政府大活躍させたかった何か)

庵野監督の無駄遣いというやつですね。
(→「『BLUE DRAGON ラルΩグラド』における小畑健の無駄遣い」と同義。)

とか
書き始めたら
長くなりそうなので
やめておきますけど(笑)



とりあえず、
今まで
いろいろ雑事が多くて

最近また会社でも

`Д´ ノД´ ノД´ ノД´ ノД´ ノД´ ノゴルァアアアアアア!!

みたいなこともあったりもしたので

(いつものことなので
もう別にいいんですけど(笑))

なかなかブログを書くという
心のゆとりみたいなのもなかったのですけれども

これからは
時間のゆとりみたいなものは
確保できそうなので

まぁ
ぼちぼち
本格的にスタートできるよう
試みてみるつもり←(笑)


とゆーわけで
本日のTop絵もTonyさんの絵ですけど
(後程久しぶりに覗いてみる予定ヾ(´_`○)ノ)

最近の会社で
こんな感じの
しかめっつらしてるなー(笑)
とか思ったんで

選んでみました。(笑)


なんかね
私が作業している
仕事先の部屋の洗面所付近に

松岡修造のカレンダーが
貼ってあるんですけど
(社長(女性)が松岡修造が好きらしい)

それ見たときの感じも
思い出し(笑)

なんか
偶然ですけど

テニスつながりってことで(笑)


毎日いろいろあるけど

がんばろー。(笑)


ではでは、またぬーヾ(・ω・`)ノバイヾ(・ω・`)ノバイ

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越境の存在。

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(もう一つのブログの5/11の記事としてupしましたので
こちらにも貼っておきます。)

blog.goo.ne.jp

こんにちは。

新緑の季節になりました。

PCの復旧はもうしばし
ということで

今日まで
先月書いたフィギュアスケートに関わるお話を
書こうかなと思います。

去年GPシリーズを見ていたときに
プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」を知って
そのあと少しニジンスキーについて知ったこと
気づいたことがあって

その備忘メモの意味も兼ねて
書いておこうと思います。

あと
プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」を
見て感じたことをいくつか。

ほんとはね
3月の世界選手権の前に
書こうかなとも思ったんだけど

前回書いたように
バタバタしていてPCの復旧ができていなかったのと
敢えて何も書かない状態で
世界選手権を見たかったので
書かなかったのだけれども。


プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」は
もう何度も見ています。

ここ最近は動画をまず、
前回の記事でリンクしたゆづるくんの
「春よ、来い」を何度か見た後
プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」を
何回かリピートして見て、
それからやっと他の動画を見始める、
という感じ。

何度見ても
素晴らしいですね。

最初に「ニジンスキーに捧ぐ」を見たとき、

中盤のステップを見て思ったのは、

これはピカソだな

と。


この私の直感は外れていなかったらしく、
後で調べたところ、

逆にピカソ
ニジンスキーから影響を受けたのではないかと
思われるとこともあって
なんかおもしろいな
と。

ニジンスキーはもともとダンサーで
その後振付師となりましたが、

その人となりについて
久しぶりに松岡正剛さんの千夜千冊より
少し引用させていただきます。


松岡正剛 千夜千冊
ニジンスキーの手記』
1000ya.isis.ne.jp
https://1000ya.isis.ne.jp/1099.html


上記サイトにニジンスキーがダンスをやめた経緯について
少し引用が。

  私はもっと踊りたかったが、
  神はもう充分だと言った。

‥  私は以前は恐ろしいことをした。
  神を理解していなかったからだ。

  神を感じていたが、理解していなかった。

とあります。

直接的な意味は判然としませんが
少し考察して後述することにします。

ニジンスキーは幼少よりダンスの才能を発揮し、
その妹が述べたところによると、

跳躍力等もすさまじく

「いつ一つのパを終え、いつ次のパを始めたか、
 まったくわからない。
 ニジンスキーは床に下りてこないで、
  情報に向かって羽ばたく鳥のように
  上へ上へと飛んでいるかのように見えた」

ニジンスキーはジャンプの最中に体のポジションを変え、
 ぎりぎりまで上半身を弓のように後ろに反らせる。
 まるでニジンスキーの体は床に触れずつねに空中に留まって
 いるかのようで、前に屈んだかとおもうと後方に反り、
 空中で前後するのだった」

とのこと。

舞踊譜を
独自のダンス・ノーテーションとして創案し、
それは、長らく解明されていなかったらしいのですが、
ようやく後世解明されることになります。

そのヒントがニジンスキーが同じ記譜法で
彫刻家ルカ・デルラ・ロビアの浅浮彫(バ・ルリエフ)を
譜面にしていたことにあったらしい
というところが
とてもおもしろい。

体の動向を独自に記譜していたという
ことですね。

ちなみに、ニジンスキーの振付は
『牧神の午後』しか残っていないそうです。


ここで
具体的にニジンスキーの振付の特徴について
下記の動画の振付師(或いは演出家?)の女性が
とてもわかりやすく
説明してくださっています。

Le Sacre du Printemps(ニジンスキー版)

https://youtu.be/ke58bOaRe8w
Le Sacre du Printemps(ニジンスキー版)

この動画はロシア・バレエ団が
ニジンスキー振付(とされる)「春の祭典」を
パリにて公演することになり
その際の番組ということです。

春の祭典」は
後にベジャールも振付を行ったことでも有名ですが、

古代スラブの儀式の生贄の少女を
テーマにしています。


先に述べた女性振付師の言葉は
8:12あたりのところからありますが、
ニジンスキーの振付の特徴について
具体的に述べてくれています。


ニジンスキーの振付の特徴は
まず静と動の差が明確に表現されていることです。


制止してジャンプする、
頭と腕を曲げた非対称のポーズ等の例が挙げられていますが、
そういった動作の逆転、明暗は
ここでは、人間のもろさ
或いは
古代人における自然や宇宙に対する恐れとして
表現していると解釈されています。


また、
2つの拍子が重複するとき
振付もまた2種類の拍子を軸に作られるのが普通ですが、
ニジンスキーの場合5つの拍子を刻むとのこと。

つまり、
踊り手はこの試練によって
苦痛を伴う儀式を実際に味わうわけで、
体の動きを非常に制限した踊りは
人間の逃れられない運命を暗示している、
と解釈するわけです。

このニジンスキー
動作の抑制は踊り手には難しい課題であり、

ニジンスキーの振付が
後世に残らなかった理由としても述べられていますが、、
肉体に対する常識を覆し、全く新しい動きを踊り手に要求するが

しかし、踊り手にとっては拒絶反応を示す“受け入れがたい”動きであった
と言えます。

これらのニジンスキーの意見を鑑みて
私が考えたのは、

つまりニジンスキー

“体の極限”を追求したのではないかということです。

ニジンスキーのダンスの才能は
常人を超えていました。

しかしながら、ニジンスキーは“その先”を見ていました。

“その先”とは、すなわち“神の領域”です。

そして、その“神の領域”に到達することは
難しいと
あるとき気づいてしまった。

だからこそ、ニジンスキーは後年

  神を理解していなかったからだ。

  神を感じていたが、理解していなかった。

と書いたのではないかと。

この言葉に見えるのは
明らかに 諦め、絶望です。

ゆえに、ニジンスキ-の振付は
その“神の領域”がどのようなものであるかを
追求し、それを理解するまでの過程であるのではないかと
思いました。


だからこそ、ニジンスキーの振付は
人間の“体の極限”の“その先”を示そうとした。

頭と腕は逆方向にねじ曲がり、

止まっているときに動く。


ここで、ニジンスキーの振付として確定されている
「牧神の午後」について見てみます。


牧神の午後・ニコラ・ル・リッシュ

牧神・ニコラ・ル・リッシュ

https://youtu.be/663rTIzz_s0


「牧神の午後」は
wikiによると下記の通り。

「「あらゆるセンチメンタリズムを追放する」と宣言したニジンスキーの振付は
 古典的なバレエのステップを全面的に排除した、極めて独創的なものであり、
 舞台上のダンサーは常に観客に対して横を向いたまま、
 ゆったりと左右に動いた独特の二次元的な姿勢であった。」

「ラストシーンでは、ニンフが残していったヴェールの上にうつ伏せになった
 牧神が下腹部に手を入れて自慰の動作をし、腰を痙攣させて性的な絶頂を表現する。
 性的なテーマがこれほど露骨な形で表現された舞台作品というのは前代未聞であった。」


 「初演では、これまでの舞台で観客を魅了してきたニジンスキーの華麗な跳躍は全く見られず、
  登場人物がぎくしゃくとした動きで行き来する平面的な舞台に多くの観客はとまどい、
  最後の自慰行為の演技に至って、ほとんどの聴衆はこの作品をマラルメドビュッシー
  バレエに対する冒涜であると断定した。」


しかしながら、こういう記述もあります。

  「ロダンニジンスキーの演技を古代のフレスコ画や彫刻の美に喩えて賛美した。」

先ほど引用した松岡正剛さんの文章でも触れられていましたが、
話は前後しますがニジンスキーは、ダンスの才能をディアギレフに見出され
後、マリインスキー劇場のバレエをまるごとパリにもってこようという計画で
「バレエ・リュス」が結成され、パリで公演された際には大絶賛されます。

 「若きジャン・コクトーはディアギレフの舞台に圧倒され、
  「ニジンスキーは船底の魚のように跳ねた」と驚嘆した。
  コクトーだけではない、ピカソエリック・サティもココ・シャネルも、
  みんなロシア・バレエとニジンスキーとパヴロヴァとカルサーヴィナにぞっこんだった。
   ロシア・バレエはパリを挑発しつづけたのだ。」

そして、ニジンスキー振付による演目では、
 「(ニジンスキーは)ダンサーたちにアン・ドゥダン(内股)を強制した。
  バレエの基本の基本である垂直性を捨て、首を曲げたまま踊るようにも指示した。
  ダンサーたちはニジンスキーの呪縛から逃れられないだけではなく、
  そうすることによってどうしても掴みえないニジンスキーのすべてと交感したいのだ。」


つまり、体の本質というものに素直に目を向けたとき、
ニジンスキーの振付による身体の表現は、美しい事実であったのだと
思います。

だからこそ、ピカソもまた、この事実に心を奪われ、
かの有名な非対称な女性の絵などに
ニジンスキーが少なからず影響を与えたのではないかと気づき、

私はおもしろいなと思ったのです。

ちなみに、「牧神(パーン)」とは羊飼いと羊の群れを監視する神で、
サテュロスと同じく四足獣のような臀部と脚部、山羊のような角をもつ獣人とされています。

獣人は、人型と他の動物の外見を合わせ持つ人物ですが、
このあたりも、昨年の12月のこのブログの記事で書いたことと少し関係していて
(エジプトのスフィンクスとかの人間とは異なる異形の神の話ね。)
表現の源に少なからずこういった原初に関わる根源的なテーマとつながっていて
興味深いというか、本当にいろんなことがつながっているな

あらためて思うわけです。


というわけで、ニジンスキーのダンスについての
一般的な所見と私の考えるところを書いたので
ここで、改めてプルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」を見てみたいと
思います。


プルシェンコニジンスキーに捧ぐ』 2004 RN 芸術点オール6,0 Plushenko

プルシェンコ 『ニジンスキーに捧ぐ』 2004 RN 芸術点オール6,0 Plushenko

https://youtu.be/kkhn4KbisJc


先ほどまでに見たニジンスキーの精神を要所要所に折り込んだ
まさにニジンスキーに捧げる、或いはニジンスキーと交感し
降臨させたかのような、素晴らしいプログラムだと思います。

全体を通して、静と動の表現の仕方が
独特で、

音楽の緩急とは逆の静と動の動きが
不思議なことに音楽と一体化されて
全体を通してひとつの作品として
バラバラにならずに美しい均衡を保っています。

コメント欄にもありますが、
音楽がクライマックスとなる場面で、敢えてジャンプなどの派手な演出をせず、
ゆるやかにひとつのポーズを決めるところなど

背筋を這い上ってくるような恍惚感があり
とても素晴らしい。(4:21あたり)

最後のポーズも
普通はびしっと決めたくなるものですが、
敢えて、ゆるやかに体のひとつひとつの分子が
世界に霧散して溶けてゆくような
ゆったりとしたポーズで締めくくっているところなど

隙のない本当に完璧なプログラムなんだなと
唸らざるをえません。


また、一番困難であり、見せ場であると思われるステップの部分では
頭方向と足のステップの向きが逆で
さながら四足獣の獣神に見まがうような
まさに人間の動きを超えた圧巻のスケーティング。

プルシェンコの他の「ニジンスキーに捧ぐ」を見ましたが
2003年の初演では、まだこのステップ部分は挿入されておらず、

導入されてからも、出来たり出来なかったりということもあるようで
この動画のこの試合こそが
素晴らしい完璧なステップを表現できたまさにその瞬間であったのかも
しれません。

それを考えると、プログラムの表現もまた
世界のさまざまな構成要素のひとつとして
その場、その場のさまざまなものと関係しながら成立していることを
改めて考えさせられます。

そして、その全てがうまくひとつの作品として
完璧に表現された瞬間というのは
本当に稀有な瞬間なんだなと。

そんな
素晴らしさを伝えてくれる、最高の表現、最高の瞬間であり

芸術点満点というのは納得というほかありません。



今回、ニジンスキーの世界に触れ、
そしてプルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」を見て、

ニジンスキー
プルシェンコの交感し、追求した表現というのは

まさに
“人間という存在を超えようとした表現”
なのではないかと
思いました。


そして、
そこにこそ、

この世界の全ての何かが生まれる瞬間の秘密もあるような気がして

こういう表現に触れるたびに
心の奥の方から突き動かされる感動を覚えるのです。

全てのことは
つながっている。

前回、
ゆづるくんの「Origin」について
世界選手権での演技を中心に書きましたが、

きっとゆづるくんもまた
プルシェンコはもちろん
さまざまな世界との交感によって

素晴らしい表現をこれからまた
きっと生み出してくれるに違いないと

私は思っています。


ゆづるくん

前回は厳しく書いたかもしれないけど、

でも
私は

ゆづるくんが素晴らしいと人だと思うので
敢えて書きました。


これからも素晴らしい表現を見せてほしいから。


今日の記事を書く前も
前回の記事を読み直しましたが

傷つけていたらごめんね。



愛ってなんだろうね。


私は
ゆづるくんが好きですよ。

白いゆづるくんも


黒いゆづるくんも
好きです。


これからも
いろんな色のゆづるくんを
見せてほしいです。



今回トップに持ってきた絵は、

山本タカトさんの「殉教者のためのディヴェルティメント」
に所収の「聖セバスチャン」を題材とした絵です。


現代の浮世絵師として名高い山本さんの絵は
国芳暁斎などを彷彿とさせて

私は好きです。


山本タカト 幻色のぞき窓
www.gei-shin.co.jp

http://www.gei-shin.co.jp/comunity/07/01.html

   “亡霊と戯れるというイメージは頻繁に脳裏に現れるのでよく絵にする。
    それがどんな意味を持っているのか生真面目に分析したことはないが、
    とにかく、くり返しやってくる。
    時空を超えた生と死のやりとりといった感じで、
    なにやら性的なものと結びついている。
     大抵、死の側の存在の方が生の側を攻め立てるパターンになるのだが、
     それは死の側が死としては出来損ないの迷える存在で、
     その者が自身の満たされない透き間を埋めようと焦っている体である。
     不完全なものも醜いようで美しい。
     どこまでも死から遠ざかって見えた美しい肉体の少年少女には死の影が宿り、
     より美しく見えるという思い込みのままに描く。”


三島由紀夫の自伝的小説「仮面の告白」では
主人公が初めて自慰行為を覚えるのが

「聖セバスチャンの殉職」の絵で

その辺りもなんとなくニジンスキーとつながりますが、


この絵は「ボレロ」を生んだダンサー、イダ・ルビンシュタインを調べていて
邂逅したものです。

イダ・ルビンシュタインは「バレエ・リュス」でニジンスキーとも
共演していますが、

↓こちらのブログさんの記事の

モンテスキウに関する記述(渋澤龍彦著「異端の肖像」からの引用)の中に
イダ・ルビンシュタインとモンテスキウとの関係と
「聖セバスティアンの殉教」の公演についてのことが書かれています。


柳本幸子の徒然音楽日記
ameblo.jp

https://ameblo.jp/marisis/entry-10727693835.html

(以下、上記サイトさんより引用)


モンテスキウが、同じく古い貴族の出身であるロシア・バレエの主宰者ディアギレフに出会ったのは、1898年である

。ここに、もう一人、彼の熱狂の対象となるべき人物、しかも女性があらわれた。裸で舞台に出た

くてディアギレフとともにパリにやってきた、ユダヤ人の富豪の娘、イダ・ルビンシュタインである。この少しも踊

らない沈黙の悲劇女優の露わな肉体を「シェヘラザード」の舞台で初めて見た伯爵は、一瞬、自分の女嫌

いを忘れたかと思った。これこそ自分が二十代のころに夢見た、乳房の平たい、残酷な両性具有者

のイメージではないか。サラ・ベルナールの場合も、今度の場合も、彼は明らかにマゾヒスティックな眼で女を眺めて

いたのである。イダはビスケットとシャンパンしか飲み食いせず、着物は一度袖を通せば、もうそのあとは決

して着ないという我がままな女だった。

 モンテスキウは、彼自身の神と、彼自身の女王とを劇場で引き合わせた。ここに傑作が誕生しないわけ

があろうか。事実、傑作が誕生することになったのである。それは伯爵のひそかな願いを叶えるに

ふさわしい、聖史劇と銘打たれた「聖セバスティアンの殉教」であった。


このダヌンツィオの作品のなかには、世紀末デカダン文学のあらゆる主題があつめられていた。主要人物の

ルビンシュタインは、両性具有でしかも殉教者であった。装置は、崩れゆくビザンティンの古代世界であった。

曖昧なキリスト教のモチーフは、その先縦というべき「聖アントワヌの誘惑」を思わせた。そしてセバスティアンに恋す

る暴君は、愛する者を殺すというサド=マゾヒズムの体現者であった。

モンテスキウは、ダヌンツィオにフランス語で書くことをすすめ、自分の使い慣れた綺語や修飾語を彼に教え、でき

あがった原稿を丹念に読んで、安っぽい懐古趣味やイタリア趣味の欠点をとりのぞいてやった。むろん

、彼自身が自分のなかにはとても発見しえない、天才の抒情の発露を損なわないよう十分の注意を

はらった。装置はロシア生まれのバクストであった。彼はルーヴルに案内され、ペルシアの織物や、ビザンティンの

七宝や、シリアやエジプトで発見されたローマ時代オリエントの低浮彫を次々に見せられた。


ほとんど素肌の上に甲冑を着ただけの痩せたルビンシュタインは、まさにビアズレー描く聖セバスティアンといった

趣になるにちがいない。これはローマ法王庁を震撼させることにもなりかねまい。音楽は、ドビュッシーを

選ぶことに伯爵が決め、彼を劇作家に引き合わせた。舞台稽古のあいだも、伯爵は空に向かって矢

を射る聖セバスティアンの所作を、振付師のフォーキンに指示するために、何度も舞台の上に飛び上がったりし

た。


  俺は躍る、百合の情熱の上で。
  俺は踏みしだく、百合の白無垢を。
  俺は押しつぶす、百合のやさしさを。


f:id:deco-noriko:20190511194607j:plain
   

       

やっぱり、いろんなことが
つながっている気がする
今日この頃です。


そんな世界のひとつひとつを
頭の中で
解きほぐしながら

これからも
マイペースで
やっていきますので


よろしくです。


ではでは、
今回はこのあたりにて。


またねー(*´∀`)ノ

春の雪。

もうひとつのブログ
blog.goo.ne.jp
でupした記事をこちらでもupします。(2019.3.31)




桜の季節になりました。

お久しぶりです。


身辺の環境がいろいろと変わったりして
PCの復旧がなかなか進んでおりませんで

あれからブログの更新もできていません。。。


PCのほうのブートCDは
ちゃんとできていたんですけど、
別の嫌がらせにあって
最後のところでうまくいかない状況のまま
なんすよね。。。

まぁ
少し時間がとれるようになったら
ゆっくり取り組みたいなとは
考えていますが。。。

てなわけで、
なかなか復帰できていませんが

先日フィギュアスケートの世界選手権を
見ました。

で、
先にこのことを書きたいな
と思ったので
今日はこのことについて
書こうと思っています。

去年の秋頃の
GPシリーズは
ちょこちょこ見ていて

本当は
世界選手権までに
書きたいことがあったんですけど
試合の直前に何か書いて
また情報だけ独り歩きしても
いけないとも思い、

今回は
PC復活してないこともあって
事前に何も書かずに
敢えて何も言わずに
観戦しました(笑)

本当は
「がんばってね」
って一言書きたい気持ちは
あったんだけど、

私が見るときって
あんまり
みんな調子がよくない(?)ときが
多いからね。。。(笑)

まぁ
多少自制の意味も込めまして。


でも、
見た日に
例の繋がっていない携帯に
あれこれ書いたりしてました。
(そこに不正アクセスして誰かが勝手に
 盗み見たりしたとしても
 責任は持たんよ(笑))


というわけで
そのひとりつぶやき日記(@繋がっていない携帯)
にも書いてますが、

今回の世界選手権を
一言で言うと


日本人選手

追い詰められすぎ


ってところです。


見ていて
本当に気の毒になりました。

「たかが日本開催」の世界選手権です。

ゆづるくんが銀メダルをとった後の会見、

何ですか、あれ。

何かの事件の謝罪会見かと
思いました。

あそこまでして
ゆづるくんに
「日本開催の世界選手権で金メダルとれなくてすみません」
って言わせたかったのかな?

と。

もはや拷問見えました。

それを見ながら
ひとまず、早くゆづるくんを
解放してあげてと

そればかり
思っていました。



今回の世界選手権は
頂上決戦においては

とても厳しい戦いになりました。

ゆづるくんでも

SPでたった一回ジャンプをミスしただけで、
フリーでジャンプの出来ばえがよくない箇所が
一箇所あっただけで
ネイサン・チェンには
及ばなかったのです。

今シーズンのネイサン・チェンは
ジャンプを失敗しない。

失敗しないどころか、
さらに完璧を目指す。


そんなネイサン・チェンに
ジャンプが不調の
(不調ではないかもしれませんが
本番の試合では完璧には飛べない可能性が高かった)
ゆづるくんや昌磨くんが
フリーでは失敗を逆転しなければならない
精神状態で挑んだのです。

でも、
ネイサン・チェンは
精神力でもはるかにそれを上回った。

SPではゆづるくんの演技後の
暗い緊張感の張り詰めた空気を

演技し始めた瞬間に
観客を一気に引き込むことで
がらりと明るく楽しげな空気に変え、

たぶんこのポジティブな雰囲気が
SPであまりよくない結果となってしまった選手にも
フリーへの闘志をよい方向に引き立てたことは
間違いなく、

フリーにおいても
ゆづるくんのあとの
大量のプーさんの転がった後のリンクの
まさにアウェイとしかいいようのない空気の中でも
自身のプログラムを完璧に表現したのである。

SPが終わった後の
私は自分のつながっていない携帯に

ネイサン・チェンへの感謝とともに
書いた。

ゆづるくんは
きっと
フリーではみんなを裏切らない
素晴らしい演技をしてくれる

と。


私がそう書いたのは
きっとみんなの期待を裏切らない素晴らしい演技を
してくれるんだから

別に順位なんて
もういいじゃないですか

という意味も込めて書いているわけですが、

でも、
みんなはきっと
素晴らしい演技をしたからと言って
一位になれなかったら
許してくれるわけではないんだろうな
とは思っていました。



実際、ゆづるくんは
素晴らしい演技をしてくれました。

でも
やっぱり

ああいう会見とかあってさ。


ほんとに
みんなの期待を裏切らない

ってことだけで

それが
どれくらい素晴らしいことなのか
そんなこともわからない人たちなんだな
って

改めて思いました。


みなさん
過度に期待はしていても
実際には根拠のない楽観的な思考で
「きっとゆづるくんは期待を裏切らない
 素晴らしい演技をして金メダルをとってくれる」
とでも思っているようでして

(実況の人とか、いつもと同じようにというか
全然空気が読めない感じで
ある意味この間の八木沼純子より酷い感じに思えましたけど、
でも、最近の実況ってまぁみんなそんな感じで
考えてみると無駄なことばっかりしゃべってるんだな
と改めて気づかされたわけですが。)

今回のフリーが
どれだけ厳しい戦いになるか
知っていたのは
その空気を感じていた
ごくわずかな人たちだけだったようでした。


6分間練習の後
解説をしてくれていた本田さんの声は
震えていました。


去年高橋大輔選手が復帰した際に
「やっぱりこれだけ緊張感のあふれる空気の中で
 戦っていたんだな、と思い出しました。」
って言われていたように、

その場にいる選手たちは直にその空気を肌で感じ、
まともにいろいろなことがわかってしまうのだろうと思う。

昌磨君が
完全に空気に呑まれているのは
6分間練習に入る前からわかったけど、

それはあのときの空気を感じていたなら
仕方ないと思う。

しかも、
フリーの日に自分に課した課題が「ノーミス」という
ものだったので
(一部の報道ではやたらそれを強調している人達もいた)
精神的にもとても厳しかっただろうと思う。

実際のフリーでミスをしたあと、
良いイメージを持って自分がどういう風に滑ったらよいか
わからなくなっているのではないかと思える程
傍から見ていてもとても辛そうだったし、
そういう状況の中で、精神力を振り絞って
よく最後まで滑りきったなと思う。

ジャンプが飛べないときに、
「ノーミス」の目標は厳しいと思うし、
過去にもその自殺行為的な目標を掲げて嵌ってしまった
選手もたくさんにいたと思うが
やはり追い詰められていると、そういう目標を
自分に課さなければならなくなってしまい
それが逆効果であることに
周りも本人も気づかないのだろうと思う。

ジャンプ以外でもきちんと滑ることが
どれだけ大切なことなのかを
もう一度考えてほしいと思うが、
このような光景を日本人選手の試合で
何度見たことだろうか。


そんなこんなで
ゆづるくんは、今回のフリーでは
ジャンプをなんとか踏ん張り、
あとはいつものごとく流麗な演技で試合を終え、
日本人の観客の狂喜ぶりは
それはそれはすさまじかったのではあるが、

観客の皆さんは
そのあとのネイサン・チェンのことは
すっかり頭から抜け落ちていたらしく(笑)

ネイサンが1位に確定したあとの
胆振りもまた落差がすごくて
ある意味笑える感じでした(笑)

私は、
日本人の観客のこれ見よがしのプーさんアピールが
始まった瞬間に
全力でネイサンを応援することが決定したので(笑)

ネイサン、行け行けー!!

みたいに
いつも以上に応援しましたけどね(笑)

そしたら、
そのあとのゆづるくんの拷問会見ですよ。

で、
誰の目に見てもそれはあまりに
ゆづるくんがかわいそうだと
やっと途中から気づいたのかどうかわかりませんけど(笑)

試合から生中継で放送していたフジテレビでは
今度は(たぶんミヤネ屋を潰して)放送特番を組み、

いかに自分たちはゆづるくんたちの手助けになることはしたけど、
邪魔になったり、追い詰めるようなことはしてない的なこととか
観客がいかにゆづるくんたちの力となっているか(←知らんけど。とりあえずマナーが悪いのは確か。(笑))
よくもまぁそんなに表面的な薄っぺらいきれいごとばっかり思いつくもんだと思える程
つらつらと述べ立てて責任回避と押し付け合いを延々と。(笑)

ちなみに
もちろん同時に行われていたネイサンやヴィンセント・ゾウさんのインタビューは
部分的にしか聞かせず(笑)

ゆづるくんが
「みなさんのおかげで云々でしたが、力が及ばず云々」みたいなところばかり
聞かせて

だからですね、
とりあえず、ゆづるくんを早く帰してあげて、
と(笑

私は思っていたわけであります。

今回ゆづるくんはなんだかんだで
日本の試合は2年ぶりなんだそう(笑

怪我のこともあるけど、
2年ぶりの試合で日本開催の世界選手権で金メダルだけ
かっさらうという筋立ては
本当に偶然なのか?

普通に考えただけでも
正気の沙汰かと思うけど
それだけの実力があるからと
ゆづるくんは思われていた。

そして、それを利用したい人たちはたくさんいて、
その歓喜を一緒に(というか我先に)分かち合いたい人たちが
たくさんいて、
その他、いろんな思惑が
このまともでは考えられない状況を作り上げ、
それをある意味強引にやり通そうとしていた人たちがいたのは
明らかだと思う。
(で、ゆづるくんはもちろん福岡で開催の国別対抗には出ない、
みたいなね。(笑))

今回のシーズン
振り返ってみると
ネイサン・チェンは出場した大会は
全て優勝したらしい。

ネイサン・チェンは
オリンピックのSPでジャンプのミスをしてしまい、
そこから驚異の逆転劇を見せ
表彰台にまで返り咲いたが、

思うに、
そのときから
ネイサン・チェンの心には
「ジャンプでは絶対に失敗しない」という意識が
確固たる信念として根付き、

この1年それをあらゆる場面で遂行し、
そして
ゆるぎなさを身につけ
この世界選手権に辿り着いたのではないかと
思う。


そういう意味から考えても
やはり今シーズンの王者は
ネイサン・チェンだと思われる。


日本ではゆづるくんが出場しない機会を得て、
若い選手が世界大会で活躍することができた、
しかしながら
本来は、その場所はゆづるくんがいる場所なのだ。

新人を育成するという意味でよい
日本のフィギュア界を盛り立てたい
という人もいるかもしれないが
(そしてあわよくば1石3鳥くらい狙っている人たちもいるかもしれない)

本当はその場所を勝ち取った者のためにある場所であり、
その機会で、本当はその勝者が可能な限り飛躍することができるのである。

それを今シーズン全うにやって勝利への道を開いたのが
ネイサン・チェンであったと思う。

機会は能力を有する者に与えられる。

アメリカらしい考え方だと思うし、

今回、ネイサン・チェンのポジティブさやエンターテイメント性など
アメリカならではの良いところをいくつも感じて

アメリカってよいなと思った。

そういう風に
選手のよいところを通して、国のよさが伝わるということは
とてもよいことだと思う。

翻って日本の状況を鑑みるに
これはいったいどうしたことだろう、
と(笑

日本のアピールは
プーさんでゆづるくん出し惜しみの後、ごり押し
失敗したら責任転嫁ですかね?

なんと情けないことではないですか。(笑


私は今シーズンの最初のほうで
ゆづるくんが自分の原点であるプルシェンコ
ニジンスキーに捧ぐ」
を自分のフリーの演技に取り入れる、ということを知り、

私はプルシェンコ時代のフィギュアスケートをあまり見ていなかったので
ゆづるくんに教えられて
プルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」を見て
プルシェンコの凄さと「ニジンスキーに捧ぐ」のプログラムの素晴らしさを
知りました。

私は、昔、それこそ選手たちが4回転が跳べる跳べないというジレンマの時代、
フィギュアスケートがただのジャンプ大会になりそうだった時期に
一度フィギュアスケートを見ることをドロップアウトしていて、
まさかその先にプルシェンコのような技術的にも芸術性にも
こんなにもすぐれた選手が生まれていたとは知らなかったのです。

で、
このニジンスキーステップがゆづるくんのオリジナルとして
どういう風に表現されるのだろうかと楽しみにしていました。


GPシリーズの最初の頃、一度、ゆづるくんの
「Origin(ニジンスキーに捧ぐを取り入れたゆづるくんのプログラム)」を
見ましたが、
かなり初期でまだプログラムとしては未完成の状態なのかな?
と思っていました。

怪我のことがあり、一時期ゆづるくんが戦線を離脱したとき、

プログラムの完成にじっくり時間を費やすことができるだろし、
ゆづるくんが毎回試合に出る度に感じる日本独特のストレスを減らす意味でも、
今回のシーズンはゆっくりと策を練る時期なのかもしれないとも
思いましたし、

実際、いろんな若い選手たちの活躍も日本のフィギュアスケート界の
未来も見えてよかったなとは思いますが、

今回の世界選手権で見た
ゆづるくんの「Origin」にニジンスキー要素は全くなく、
これはどうしたことかと思いました。

このことが、わたしが今回とてもがっかりした点です。

上述のフジテレビの特番で、
ゆづるくんのプログラムについて一応芸術性や構成面について
意見を伺うべくプルシェンコにインタビューをしていましたが、
プルシェンコも「ゆづるくんのプログラムにニジンスキー要素は全くない」
と言っていました。

どうやら、プルシェンコニジンスキーステップの部分を
ゆづるくんの滑らかなステップへ変更したものが
ゆづるくんのオリジナルの完成形のようである、とのことらしい。

ゆづるくんのオリジナルというのは
あくまでも
ゆづるくんがニジンスキーの概念を消化した上での
オリジナルになるのであろう
と思っていた私は、
全くニジンスキーの要素のないゆづるくんのオリジナルを見て
すごくがっかりしました。


たぶん、プルシェンコも同じガッカリ感を感じたことだろう。

何故なら、それはプルシェンコの「ニジンスキーに捧ぐ」の
プログラムについての理解をしていないからだ。

プルシェンコのプログラムを良く見ればわかることだが、
プルシェンコのプログラムは
流れるような滑りが特徴的な流麗な美しさを表現する側面をも
別に持ち合わせた複雑な構成要素を持つプログラムで、
その流麗な表現が、ステップなどのニジンスキー風の独特な動きを
より鮮やかに浮かび上がらせているからである。

よってニジンスキー風のステップなどの部分を滑らかにする必要が全くない。

なので、おそらく、ゆづるくんは
まず、ニジンスキーについて理解していないのではないかと思う。

プルシェンコは、ニジンスキーについて膨大な資料を集めたとも言っていたが、
そこからあのプログラムを一から作り上げたのである。

そこからゆづるくんがオリジナルを作ろうとするならば、
まずニジンスキーの特徴とそれを自分のものにしたプルシェンコの能力を
分けて考えなければならないが、まずそれができていないのではないかと思う。

多分、プルシェンコの滑りを自分流にアレンジしただけだ。
そこにニジンスキーの要素は全くなかった。

私は、ゆづるくんがニジンスキーをどんな風に理解し、
フィギュアスケートで表現してくれるのかとても楽しみにしていたので、
フリーの演技が終わって、これが完成形だったのだとわかったとき
ちょっと呆然としてしまいました。

そこが今回残念だったところです。

フィギュアスケートは技術面と芸術面がどちらも評価される競技であることは
もちろんですが、
全体的に今回もやはり、わかりやすいジャンプの面ばかりが
取り沙汰されていたように思います。

少なくとも、プルシェンコ時代にプルシェンコのプログラムに芸術点満点を
つけた審査員達は、その芸術性を理解することができた。
プルシェンコの凄さも。

ひとまず、今回フジテレビを含め今のフィギュア界で情報を発信している人たちが、
そういう理解の仕方を全くできていないことはわかったし、
毎回毎回ゆづるくんに直接インタビューしている人達の誰一人として
ニジンスキーについて詳しく調べた人がおらず、
ゆづるくんのニジンスキープログラムについて
何の疑問も持たなかったこともわかった。

本当に最低だなと思うけど、そういうメディアや芸術に携わる能力の無さ以前に、
自分たちの都合の良いように情報を作り変えることを平気でやる様子を見ていても
そもそもが無理なのかもなと思う。

ゆづるくんは技術的にも、芸術面でも優れた表現を行うことが出来る
極めて稀な選手であるが、
そういった選手が、ジャンプのみばかりを競うフィギュアスケート
その才能を開花させることなく終わってしまうのではないかと

ゆづるくん以外の選手や今後のフィギュアスケート界の見通しを考えてみても、
かなり危惧を感じたが、

何よりもゆづるくんの
その才能がもったいないなと感じた。

誰にその才能を潰す権利などあるだろうか。

今回ゆづるくんがネイサン・チェンに及ばなかったのは、
ジャンプに関してはもちろんそうではあるが、
本来ならばゆづるくんに出来ていた芸術面での表現が
点数に結びつかなかったという直接的な原因にもつながる。



その後、一気に見る気がなくなって
ついエキシビションを見逃してしまいましたが(笑

つい昨日ネットで
ノーカット版を見ることができました。

(それも実況・解説なしで(笑))


アイスダンス、ペアなどを中心に見ました。
(諸々の理由あって、女子シングルは見ません(笑)
ザギトワちゃんは見ましたけど。(笑))

アイスダンス、ペアは素晴らしかった。

日本のアイスダンスの選手もよくて、
RADの曲が使われてましたね。

フィギュアスケートの選手的には

「まだこの世界は 僕を飼いならしてたいみたいだ
 望み通りいいだろう 美しくもがくよ」

の部分が表現したい部分なのかもしれませんが、

私は、そのあとの部分が好きなので
それを素直に聴いていた頃の自分を思い出して

なんとなく懐かしくて
涙が出ました。

男子シングルは
田中刑事選手以外(←なんとなく不吉な色物的な要素を感じて飛ばしました。(笑))

全員見ましたが、

やはりネイサン・チェンは
ポジティブなパワーがすごいと改めて思いました。

人を笑顔にして
幸せにするパワーだ。


最後にネイサン・チェンが滑ってくれて
とてもよい終焉だったなと
思いました。


昌磨くんのSee you againのプログラムも
大好きなのですが

今回は
よりいっそう感情面で深みを感じられました。

素晴らしかった。

いつも
そんな風に
試合でもやれたらいいのに。。。


最後に

ゆづるくんのエキシのプログラムについて書いておきます。

本当は、今日このブログを書くつもりはなかったのです。

上にいろいろと書いたことは
私の"繋がっていない携帯”の中で
ひっそり収めておくつもりでした。

でも、
エキシビションのゆづるくんのプログラムを見たので
そのことについて少し書きたいと思い、

その前提として世界選手権で私が感じたことも
書いておく必要があると思って書きました。


エキシビションのゆづるくんのプログラムは
「春よ、来い」でした。


一見、ゆづるくんが
桜の花びらの精のようにも見えたけれど、
私には、これは雪の精だな

と思いました。


春の到来を待ち望む人たちは多い、

けれど、

ゆづるくんたちフィギュアスケートの選手や

冬の季節とともに歩み、
輝きを増す人たちは、

冬も大好きだと思う。


だから、

降る雪の美しさも、

その格別な白さも知っている。


その季節を愛する人たちが

その季節を名残惜しむ気持ちが

伝わってきた。


春を迎え、

去りゆく季節の

そのひとひらの雪を表現したような

儚く、切なく、

そして美しいプログラムでした。


春の桜の花びらと

入れ替わりに

ふっと

粉雪が舞った。


その手のひらのきらめきを

じっとみつめながら

ゆづるくんは

いつもの首飾りもせず

風のように

舞った。



神様の呪縛から

開放された

初めて世界に舞い降りる

あどけない
子供のような

表情をして



空からおちてくる

きらめきを

みつめていた。

今回

ゆづるくんが
「Origin」を
滑ったことは

よいことだったと

やっと思えました。



春も、また来る。


冬も、また来る。


これからも

ゆづるくんは

全ての世界から

愛されるだろう。


ゆづるくんが

フィギュアスケートを愛することを

とめないで。


ゆづるくんが

キスした

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私たちも

愛そう。



【フジテレビ公式】世界フィギュアスケート選手権2019<羽生結弦選手・エキシビション>ノーカット配信

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